鐘撞堂の娘
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「鐘撞堂の娘」をお届けします。
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「ほほう!」
思わずも、唸るような感歎詞をもらして、音吉は、後を振返った。——擦れちがった町娘の、横顔が美しかったのである。襟足の白さが水際立っていたのである。
「ほほう!」
と、念入りに、もう一度感心したのは、その娘の後姿の容子のよさに、身も魂も奪われてしまったからだ。
「ホホ。眼尻を下げて、なにを見とれているの」
ぽんと肩を叩かれて、はっとわれに返ると、馬道の女師匠常磐津文字花が、意地悪な笑顔を見せて立っている。わるいところをわるい女に見られたものだ。
「あっ、師匠ですかい。……なに、その、ちょ、ちょっと……」
口から先に生れたような音吉だが、苦手の相手だと、とっさには、うまいせりふも浮ばないと見える。へどもどと口ごもって、逃腰をかかえたが、
「敵に後を見せるなんて、卑怯だよ、コブ吉兄さん」
そうは問屋が卸さないと、白魚のような女の指が、早くも、音吉の袖に絡まっていた。
「そ、そんなわけじゃないんですがね。あっしゃ、少し急ぎの用事で・・・・・・」
「ホホ。急ぎの用事を持っている者が、昼日中、別嬪の後姿に見とれていて、財布を掏られたなんて、話にもならないね。……ま、それは冗談だけれど、ちょっと寄って話してかない。羊羹のおいしいのがあるから、お茶でも淹れようじゃないか……」
「でも……」
「遠慮なんてがらでもないじゃないか。それともあたしが苦手なのかい。いいよ。寄りたくなかったら寄らないでも。そのかわり、女に見とれて財布を掏られたって、とっときの話を、みんなにぶちまけて上げるから」
「しょうがないな。寄りやすよ、寄りやすよ。そのかわり、今の話だけは、かんべんしておくんなさいよ」
音吉は、観念をして頭を掻いた。
「ホホ。やっと決心がついたかい」と、文字花は勝ち誇ったように、
「じゃ、そろそろ歩き出そうか。……でも、ほんとに、財布は大丈夫かどうか、調べて見るがいいよ。オホホホ……」
「しつっこいね」
文字花にからかわれている意味がわかるので、音吉も、ついむかっ腹を立てた。
音吉。今でこそ、江戸で売出しの御用聞花川戸の七之助の乾児で候のと、張栄もしない撫肩で風を切って押し歩いてはいるが、前身を洗えばけちな巾着切。その巾着切上りの御用聞の乾児が、あべこべに人に財布を掏られたなんて、そんな噂を振りまかれた日には、お面でもかぶらなければ道も歩けない。
「くさるなあ。師匠に会っちゃ、かなわねえや」
悄気返った音吉を、
「なに、ここだけの冗談さ。あたしゃ、こう見えてもね、しゃべらないと言ったら、口がたてに裂けてもしゃべらない性質なんだから、安心してらっしゃいよ」
と、機嫌を取り直す文字花だった。
「ちっとばかり、お前さんに訊きたいことがあるんだがね」
柄にもなく、文字花の顔に、生娘みたいな羞恥の色が流れた。
「なあんだ、そうか。羊羹を食わしてくれたり、体ごと溺れてしまいそうな座蒲団に坐らせてくれたり、待遇がよすぎると思った。……なんですかい、訊きたいことって?」
音吉、舌のしびれそうな淹れたてのお茶を一口すすって、頤を突き出した。
「弱味を見せると、すぐにこれだからね。悪いくせだよ」と、文字花は笑って、「親分のところに御新造が見えるって、ほんとかい? 昨日さるところで、ちょっと小耳に挟んだんだけれど」
「ああ、ほんとだよ」
ざまあ見やがれと、音吉は、心の中で溜飲を下げた。
「仲人は八丁堀の旦那だってね。素人の娘さんかい?」
「きまってらい。うちの親分が、すれっ枯しの女なんかに見向きもなさるかってんだよ。なにしろ、親の無実を晴らそうと、男も及ばぬ苦労をなすった娘さんですからね。それに、縹緻はいいしさ。あんな御新造なんて、探したって滅多に見つかるもんじゃあ、ありやせんぜ」
「なあんだ。それじゃ、大黒丸の詮議の時の贅六娘だね」
「贅六娘で悪かったね」
音吉は、わがことのようにむかっ腹を立てて、唇をとがらせた。
「ホホ」と、文字花は、小鼻のあたりに、ちょっと皺を寄せて、「だから、お前さんも、主婦さんが欲しくなったんだろ」
「え?」
「だって、昼日中、仲見世の人混の中で、擦れちがった娘の後姿に、涎を垂らしたりしていたじゃないか」
「あ、あれは……」
「話を通して上げようか。あの娘さんなら貰えますよ」
「か、からかっちゃいけねえ」
「ううん。からかってるんじゃないの。正真正銘、あの娘なら、貰えるわけがあるんだよ。でも、可怪しいね。お前、御用聞のくせに、ほんとに、あの娘の素姓を知らないのかい?」
「さあ——」
「あれがお前、本石町の轆轤首娘じゃないか」
「ええっ! ほんとですかい? なるほど美人だ。でも、いくら美人だって、轆轤首娘じゃあね」
背中に、ぞくぞくと寒気さえおぼえて、音吉の語尾はふるえを帯びていた。
つい最近のことだが、「日本橋本石町の鐘撞堂の娘お島は轆轤首だ」という噂が立っていた。お島の父は松沢幾三郎という。本石町の鐘撞堂は、そこを中心にした、大小横町をあわせた四百十町から、一戸当り年四十八文ずつの棟割銭を取っていたから、相当の収入があって、いい株になっていた。鐘撞男も七八人は雇っている。
だが、江戸八ヶ所の鐘撞堂には、一の例外もなく無気味な伝説がからまりついていた。
恋に狂った男女の怨霊がとり憑いているというのだ。「オオすかねえ明(あけ)の鐘」とは歌沢の文句だし、道成寺にも「鐘にうらみは数々ござる」と唄われている。時の鐘を撞いて人の怨を受けてはわりに合わない話だが、後朝(きぬぎぬ)の別れを惜しむ恋人たちにとっては仲を裂く鬼の声とも聞えたであろう。
お島が、行儀見習のために奉公をしていた、麹町の旗本屋敷から、ひまを取って宿下りをしたのは、半年ばかり前のことだった。年は十八。一人娘なので、前から決っていた養子がすぐに迎えられた。しかし、この養子は、二三日で松沢の家から逃げ出してしまった。やがて、二度目の養子が来たが、これも二三日しかつづかなかった。三度目の養子が、同じ轍をふんで、ほうほうの態で退却すると、
「鐘撞堂の小町娘は轆轤首だそうだ」
そんな噂が、どこからともなく立ちはじめて、次第に江戸の町中に拡って行った。
「そりゃあ、ふるいつきたい程、美しい寝顔だっていうじゃないの。でも、行燈の燈芯を掻き立てて、ああいい寝顔だなあと見惚れると一緒に、あの白い襟足がさ、すうっと抜け出して、三枚屏風の上から、ニタニタニタっと、笑うんだってさ」
身振も入れた文字花の話上手に
「もう、もう止しておくんなさい、そんな話——」
額に汗さえ滲ませて、泣きべそを掻く音吉だった。
「ホホ。コブ吉哥兄さんみたいな女好きでもね。轆轤首だけはいやだと見える。……でも、お前みたいな物好きな人が、本石町の轆轤首娘を、今日まで一度も見たことがないなんて、へんだね」
「そりゃあ、あっしゃあ物好きだけれど、どうも轆轤首だけは気味が悪いからな。恐いもの見たさというけれど、後でおこりにでも取り憑かれたらわりに合わねえもの」
自分ながら、うまく白っぽくれたものだと、音吉は思った。音吉、臆病は臆病だが、好気心は、そいつに一層輪をかけている。噂を聞いたあくる日には、小間物屋の彦八を誘って探検に出かけているのである。だが、二人が松沢の家の塀の外にうろうろしているところを、挙動を怪しんだいい男振の鐘撞男が、
「こらっ、なにをうろうろしとるかっ」
眼玉を剥いて大喝一番、眼にも止らぬ早業で、二人の頰桁を、一つずつ喰わせたのである。だらしのない話だけれど、あの鐘撞男の剣幕と腕っぷしには、骨身に沁みてこりごりしている音吉だった。
「もう、こう噂が拡まっちゃおしまいでしょうね。いくら女がよくったって、養子に行こうてえ物好きも種切れでしょう」
「だからさ。養子をとるのは諦めて、持参金をつけてお嫁に出すんだって」
「へえ」
「初耳かい。よくなんにも知らない人だね。それで御用聞しょうばいが勤まりゃ、世話はないね」
と、文字花は、ちくりと痛いところを一本刺したが、その言訳をおさえるように、すぐに続けて、
「さっきも言ったように、あたしが話を取りついであげる。どうだえ、身を固める気はないかえ?」
「ええ、もう、止しにしておくんなさい。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「だって、養子と嫁入は意味合がちがうだろう。縹緻はいいし、持参金はついているし、轆轤首が抜けなくなりでもしたら拾い物だろうじゃないか」
「桑原、桑原。こ、こ、こんなところに、長居は無用、っと」
と、音吉は、逃支度をかまえて、尻を浮かした。
這々の態で、文字花の稽古所を逃げ出した音吉は、いつの間にか、浅草寺の境内に迷い込んでいた。
喉がかわいている。麦湯のかおりがぷんと鼻をついた。丁度よい機会だ。たつみ屋のお蓮の顔でしばらくぶりに拝んでかえろうかと、音吉は、一軒の水茶屋ののれんに近づいて行った。
と――その時。
たつみ屋の隣に並んだ、上総(かずさ)屋ののれんが内側から割れて、すっと銀杏の蔭に立った若侍。きざな細身の大小を落差にして、役者にしても惜しいくらいのいい男っぷりだ。連れがあると見えて、
「おい!」
出て来たばかりの暖簾に向って、頤の先で呼びかけると、
「はい」
素直な若い女の声がして、白い顔と、こぼれるばかりの簪とが、若侍の胸のあたりに吸い寄せられた。が、それと同時に、
「あっ!」
音吉が、おどろきの叫びをかみ殺して、すくんだ足をそのままに、まじまじと眼をみはったのである。——さっき、仲見世の通りで擦れちがった、鐘撞堂のお島だった。
一番目の養子は水道町の安旗本の次男坊。二番目は、佐柄本町の古道具屋の伜。三番目は、田島町の仏具屋の厄介者。——一日のうちにこの三人の身許を突き止めたのは音吉の手柄だ。
七之助は、この三番目の、仏具屋の伜芳次郎を、最寄りの自身番に呼び出した。二十二三の色の生っ白い男。仕事がきらいなくせに、慾は深いし、女の縹緻えらみはするし、というのが、この手の若い男の中にはよくあるものだ。
「お前、たった三日目に、養子先から逃げ出したそうだな」
虫の好かん奴だという感情も手伝ってか、七之助の詮議は、最初から厳しかった。
「へ、へい」
「なんだろう。お前、最初っから、あの、小町娘を弄(なぐさ)んで逃げるつもりだったんだろう」
「と、とんでもございません」
「じゃ、なぜ、娘をきず物にして逃げ出したんだ」
「親分、そ、そりゃあ、とんだお見込ちがいです。物にもなんにも、あっしゃあ、指一本、お島さんの体に触っちゃいねえんですぜ」
「嘘を言うな。同じ屏風のなかに二晩も夜を明して、夫婦の間に指も触れなかったなんて、そんな莫迦なことがあるもんか」
「と、ところが、親分……」
「轆轤首だというつもりなんだろう」
「へえ。でも、たしかに……」
「ほんとにそうか?」
と、きびしく問い詰められて、
「へい、ほんとに、親分……」
口先だけで、芳次郎の、怯えた眼つきには自信がなかった。
「轆轤首の噂はおれも聞いている。その怪しからぬこしらえ話を世間に拡めたのはお前だったのか。察するところ、お前、花嫁に肘鉄を喰ったな。その腹癒せに、轆轤首の噂をまことしやかに吹聴したんだろう。人間一人を殺すも同じだ。罪は重いぞ」
「お、親分!」
見る見る、顔面蒼白となりながら、芳次郎は、ふるえ声を振絞った。
「なんだ?」
「轆轤首の噂は、あっしが吹聴したんじゃござんせん。あっしゃあなんにも言わねえのに、世間が勝手にそう決めちまったんです。それであっしも、その噂に調子を合せていさえすりゃあ、それが一番無難だと思いやして……」
「ふうむ」七之助は、芳次郎の顔を穴のあくほど凝視めながら、
「じゃ、どうなんだ。どうして養子が勤まらなかったんだ」
「親分。親分は、浪花屋のお北さんの噂を御存じでしょうね?」
なぜか、七之助の問には答えず、芳次郎はあべこべにたずねると、ぶるぶるっと身ぶるいした。
「ああ、聞いている」
と、言いながら、なんだ。又因縁話か――と、七之助の頭は、漠然とした謎めいた霧に閉されてしまった。
大伝馬町の漆問屋、浪花屋のお北は、界隈でも評判の小町娘だった。浪花屋の本家は大阪にある。その本家の後取の弟で、お北とは又従弟に当る庄吉は、江戸見物のついでに、ずるずると、半年ばかりも、浪花屋の離室に泊り込んでいた。いつの間にか、庄吉とお北は人目を忍ぶ仲になってしまっていたのだ。しかし、庄吉には、許嫁の娘があった。式も間近に迫っている。それだのに、何度飛脚を差し立てて催促しても、帰国の気持も見せない庄吉だった。とうとう、大阪からの幾度目かの飛脚便は、お花の父の浪花屋茂左衛門に宛てたものであった。その結果、茂左衛門の口から、庄吉に向って厳重に帰国の日取が言い渡された。が、その朝、庄吉とお北は剃刀でのどを切って死んでいたのである。本石町の明六ツの鐘を合図に、死を急いだことが、お北の書置の中に認められてあった。
「あの、お北さんの怨霊が、お島さんには乗り移っているんです」
「そんな、莫迦なことがあるもんか」
「いえ、ほんとなんです。時の鐘が鳴り出す度に、ごろっと起き直って、ああ、又鐘が鳴る。ええ、うらめしい)とか、(庄吉さん、お前の心は、もう、大阪の許嫁の娘さんのところに行っているのだろ。明六つの鐘が待遠しいのだろ)とか、そんなことを口走りながら、屏風のなかを、ぐるぐると歩きまわるんです」
「そうか。じゃ、やっぱり、お北さんの怨霊が取り憑いているのかも知れないな」
七之助は、素直にこう相槌を打ったが、彼の頭には、不可解な疑念がひっかかっていた。そうだ、狂言だ。狂言にちがいない。
しかし、お島は、なんのためにそんな狂言を演じたのであろう。
「て、大変だ。大変だ。親分、どえらいことになっちまいやしたぜ」
息を切らして駆け戻った音吉の、枕抜きの報告だった。
「どうしたってんだ?」
せまい庭先に、桃の花が咲いている。七之助は、愛用の三味線を、静かに、膝のまろみから畳の上にすべらせた。
「鐘撞堂の花婿が、昨夜っから、神隠しにあってるんでさ」
「ほ、ほう!」
好気の瞳がらんらんと燃えて、七之助の膝が、一膝じりっとのめるように動いた。
轆轤首娘に持参金をつけて嫁に出す――という話を、音吉が、馬道の文字花から聞いてからざっと一月。世間には慾の皮の突っ張った人間もいると見えて、どんな因縁つきの娘でも持参金次第では嫁にもらってやろう、と乗り出したのは、音羽三丁目の裏店に手習師匠の看板を掛けている若い浪人者であった。仲に立って話をはこんだのは、漢方医者の木下朴庵。お島の父の松沢幾三郎とは面識の間柄である。そして、今日は、その輿入の当日であった。
「どうも、虫が知らせたとでもいうんでげしょうね。あっしゃ、今日は朝っから、どっかで、なんか起ってそうな気がしてならなかったんだ。だから、あっしゃ、本石町まで足をのして、鐘撞堂の小路(こうじ)の入口で眼を光らしていたんです。てえと、そこんところへ宙をとんで走って来た辻駕籠がぎっと降りやしてね。泡を食って小路の中にとび込んで行ったのが、見るからに、藪医者らしい風采の男じゃござんせんか。ははあ、この野郎が仲人の木下朴庵だとかいう藪医者だな、と、ピーンと来やしたもんだから、あっしも、すかさず、そいつの後からとび込んで行ったんでさ」
音吉は、鉄瓶の白湯を、湯呑に注いで一口喉をうるおすと、
「だが、家の中の取り乱したようなざわめきは、手に取るように聞えるけれども、くわしい事情はちっとも判りやせん。下手にうろうろしていて、又こないだの鐘撞男にでもとっ補ったら、今度こそ、頰桁の一つや二つ持っていたって間に合わねえとは思っても、そんなことを恐がってもいられやせんので、あっしゃあ、松沢の家のまわりを、ぐるぐると三べんばかりめぐっちゃったんでさ。てえと、運がいいたらねえじゃござんせんか。木戸口の前を通りかった時に、そこの開戸がぱっと開いて、頬っぺたの赤え女中が出て来やがったんです。あっしゃあ、ここだと思いやしてね。いきなり、そいつの鼻っ先に、十手の先を突きつけたんでさ。(おい、下手に隠し立てをするてえとお前の身のためにならねえぜ。今、仲人の藪医者がとび込んで来やがった様子はただごとじゃなかった。いってえ、なにがあったんだ?)って、睨みを利かしやすてえと、女中め、ぶるぶるとふるえながら、小耳にはさんで知っていることを、洗いざらい泥を吐きやがったんでさ」
と、音吉は、手柄の披露に区切をつけて、おほん、と、一つ、空咳をした。
それから半刻の後には、七之助は早くも、八丁堀与力、成瀬陣左衛門の役宅に出向いていた。
「なに、変死人? お前の心当りに関係のある人間かどうか知らないが、一つだけ、報告が入っているな。鉄砲坂の空地だ。浜中茂平次がしらべに行っている」
「そうですか。じゃあ、ひとっ走り駈けつけて見ましょう」
挨拶もそこそこに、陣左衛門の役宅を飛び出した七之助は、玄関に待たせておいた音吉を促して、通りに出ると二挺の辻駕籠をはずんだ。
「なんだ、七之助。もう嗅ぎつけてやって来たのか」
浜中茂平次は、笑いながら、七之助を迎えた。
空地の中央、服装も小ざっぱりした一人の若侍が、俯伏に草の根をつかんでいる。その横顔が端麗であった。
「身許は判りやしたか?」
「いや、それが判らないので、困っているところだ。美男子だぞ。惜しいものだ。どうせ、女出入というところかな」
「では、ちょっと——」
七之助が、茂平次にことわって、死体のかたわらにしゃがみかけた時、
「親分!」と、音吉が、気負い込んだ口調で呼んだ。「どうも、どこかで見たことがあると思ったら、やっぱりそうですぜ。こりゃあ、奥山の水茶屋で、鐘撞堂のお島と逢っていた男だ。この鮫柄の、細身の腰の物にも、はっきりと見覚えがごぜえますぜ」
「ほ、ほう!」
音吉でかした、と言わんばかりに、七之助は、しみじみと、音吉の顔に瞳をこらしていたが、
「音。お前、行方不明になったという、今度の花婿の顔は知らねえのか?」
「親分。残念だが、そいつぁ……。なんしろ、花婿の口が決ったてえ話を聞き込んでから、十日と経っちゃあいねえんでしょう。でも、あっしゃ、三度ばかり、音羽三丁目の手習師匠の看板は、睨みに出掛けてるんですぜ。そんな慾の皮の突っぱっている男てえのは、どんな顔をしていやがるか、一ぺん見てやりてえもんだと思いやしてね。ところが、可怪しな野郎で、一度だって、家にいやがったためしがねえ。近所の噂を聞いてみても、手習師匠の看板は掛けていても、弟子共が出入りしている様子も無え、っていうんでげすからね」
「怪しい奴だな」
と、茂平次は唸ったが、七之助は、黙然と、腕を拱いて何か考え込んだ。
麹町五丁目のとある小路の中に、鶴源という小料理屋の暖簾が下っている。
その、鶴源の二階の、うすぎたない四畳半に、七之助は、酒好きらしい中間ていの男と小さな茶袱台を挟んでいた。
膳の上には食い荒された肴の皿。空になった銚子が、もう七八本並んでいる。
「さっ。も一ついきねえ。遠慮なんかするなってこと」
そう言って、七之助は銚子を取上げたが、相手は、とろんとした眼の先で、手首から先をきなきなと打振った。
「もういけねえ。もう十分頂きやした。あっしゃあ、酩酊をするてえと眠くなる性質でね。早えとこ、用事を言って下さらなきゃあ、役に立たなくなりやすぜ。あっしだって正直な人間だ。酒の飲逃げなんていやですからねえ」
そうか、と七之助は笑って、
「じゃ、聞くが、今から半年ばかり前まで、お前んとこのお屋敷に、奥勤めに上っていた、お島という縹緻よしを知っているだろう」
「ああ、知っている、知っている」
と、中間ていの男はうなずいた。こやつ、五一というのが名前で、すぐこの近くの、八百五十石取の旗本、鹿子木主馬の屋敷に中間奉公をしている男なのだ。
「で、そのお島てえ娘なんだが、その頃、なにか、噂でも立てたようなことはなかったろうな。たとえばよ、悪い虫がついたとかなんとか――」
五一はにやっと笑って、大きな掌で、脂の浮いた団子鼻をしごいた。
「よく知っているね。あんなおぼこな顔をしていながら、よろしくやっていたんだよ。相手は、中小姓の青山春彦といってね。名前からしてにやけ青二歳だったよ」
「その、青山という若侍は、今でもお屋敷に勤めているのかい?」
「なあに、中小姓といっても、こちとらに毛の生えたみたいな渡奉公人だからね。それに、お島さんが宿下りをしてからも、青二才め、使い走りの先々で、呼び出しをかけちゃ逢っていたんだろう。始終、門限ばかり遅らせやがって、それが用人の耳に入ったもんだからね。お払い箱さ。もう二月にもなるかな。それきり、姿も見かけねえし、噂も聞かねえ」
いよいよ睡魔に襲われたと見えて、五一の語尾はかすれていた。同時に、こくりとひとつ、大きく舟を漕いだのである。
七之助から青山春彦の変死を聞かされても、お島の顔には、予期したようなおどろきの色は現われなかった。
「なんだ。青山が殺されたことを、お前はもう、知っていたんだな。誰に聞いたんだ?」
すると、今度は覿面だった。
「い、いいえ」と、必死の眼色で否定して、
「親分さんから、ただ今、はじめて伺って、びっくりしているのでございます」
「なにを、子供だましみたいなことを。誰に聞いたと訊いてるんだ」
「い、いいえ。なにも……」
「おれの眼力に狂いはねえ。お前、青山を殺した人間も知っているな」
返事のかわりに、お島は、わっと、その場に泣き伏した。形のよい撫肩を波打たせ、そして泣声の間から、
「無理です。無理です。私。なんにも存じませんのに」
とぎれとぎれに、強情を張り続ける。
十手稼業の人間にとって、女に泣かれるくらい手のつけられないものはない。おどしてもすかしても、なんの役にも立たなくなってしまう。
「ちぇッ!」
こっちは後まわしだと諦めて、七之助は立上った。だが、お島の波打つ肩を見下しながら、捨科白のように、
「誰が殺ったか知らないが、でも、お前のためには、かえって、その方が幸福だったかも知れないよ。おれが調べたところでは、青山という男は、あんまり感心のできない人物だった。くそ御家人の次男坊に生れてよ、身持が悪くて勘当されても性根は直らず、女も喰えば、ゆすりかたりも働いていた、とんでもねえ野郎だったんだぜ」
すると、泣きじゃくりの中から、お島が、
「はい。私が、私が、莫迦だったのでございます」
実感のこもった、はっきりした言葉だった。この女は知ってるんだ。なにもかも知ってるんだ。まるで、そのことを白状しているような言葉ではないか。
「……?」
詰問の言葉が、喉元までこみ上げたが、ふと又思い返して、そのまま、七之助はお島の室を出て行った。
庭下駄を借りて、庭伝いに、鐘撞堂へ行く通路の扉を押すと、黒々と闇夜の空に聳えている、鐘撞堂の鐘楼から、ごうん……と、五ツの鐘がひびき出した。
小屋をのぞくと、非番の者は夜遊びにでも出掛けていると見えて、二人の男が頬杖をついて寝そべっている。
「二人だけか、咲平はいないのか?」
と、七之助は訊ねた。咲平というのは、いつか、音吉と小間物屋の彦八に頬桁を喰わした、いい男の鐘撞男だ。
「今、時の鐘を撞いてまさ」一人の男が言った。
「そうか」と、顔をひっ込めて、七之助は、鐘撞堂へ歩いて行った。鐘楼の下に佇ずんで待っていいると、やがて、鐘を撞き終った咲平が下りて来た。
「咲平だな。おれは花川戸の七之助だ」
こう言いながら、銀磨きの十手を、ぴかっと闇の中に光らせると、相手は、棒立のままあっと息を飲んだ。
「腰でも下して話そう。ちっと、訊きてえことがあるんだ」
七之助が羽織の裾をまくって、堂の欄に腰掛けると、咲平も、おとなしく、すこしはなれたところに腰を下した。
「咲平。もう、なにもかもわかってるんだが、素直に白状したらどうだ?」
「……」
おしになったみたいに、咲平は答えないのだ。——七之助は、自分の想像が、いよいよ確からしくなって来るのを感じた。
「お前の身許詮議も、もう済んでいる。今から二十五年前の冬の朝、湯島天神の境内に、ねんねこにくるんで捨てられてあったのを、朝詣りに行ったお島の父が、不愍がって拾ってかえったのだ。そうして育てられた恩を感じて、お前は、青山春彦を殺ったんじゃないのか。あいつは、悪い奴だったからな」
「親分!」
こらえ切れなくなったような声で、咲平は叫んだ。
「なんだ!」
「あ、あっしを縛っておくんなさい。あいつを片付けたんだから、あっしゃあ、もう、打首になってもかまわないんだ」
「そうか。やっぱりそうだったのか。じゃあ、なんだな、お前、お島に、青山を殺したことを白状したな」
「へえ。あっしが憎かったら、お嬢さんの手で縄を打って、奉行所につき出しておくんなさいと頼んだんです。……あっしゃ、前から、青山春彦の悪だくみには気がついていたんです。あいつが欲しがっていたのは、お嬢さんじゃねえ。松沢の財産と、鐘撞堂の株だったんです。ですから、あいつは、お嬢さんをそそのかして、狂言を使わして、養子の口を次々とぶちこわたんです。そして、ひとりでに自分の番のめぐって来るのを待ってやがったんです。あっしゃあ、お嬢さんの眼を覚して上げようと思って、あいつの身持をずいぶんくわしく調べたんです。そしてお嬢さんを諫めたんですが、かえって機嫌をわるくなさって、あっしの言うことなんか、耳のはたへも寄せつけては下さらねえんです」
「だから、最後の手段をとったというんだな」
「へへい。お嫁さんが待っていなさるからと欺して、あいつを、鉄砲坂の空地に誘き出しやしてね」
「そうだったな。でも、今じゃあ、お島にも、お前の忠義が解っているようだ」
「そ、そうでござんしょうか」と思わず、咲平の声が、歓喜にはずんだ。
「だって、そうだろう。青山殺しの下手人は、お前だと知っていながら、口が裂けても白状しそうには見えないもの」
「ああ! 親分さん、あっしゃ、あっしゃあ、もう、なんにも言うこたあねえ。火あぶりになったって、さらし首になったって、この世に思い残すこたあござんせん」
咲平は、両手に顔を押し当てて、子供みたいに、大声をあげて泣きはじめた。
咲平は、奉行所の白洲で審きを受けたが、時の町奉行黒川備中守はかえって、咲平の忠義を賞した。飯田町の藪医者木下朴庵は、青山春彦から、事がうまく運んだ暁には礼金をもらう約束で、悪企みの手先になって画策していたことが発覚して、伝馬町の御厄介になった。
事件が一段落を告げると、松沢幾三郎は、花川戸の家に七之助を訪ねて行って、咲平とお島の仲人を頼んだ。
もうその時分は、眉を落し、白歯を染め、丸髷に赤い手柄を掛けた、お雪の初々しい新妻姿が、七之助の家のなかに、匂っていた。幾三郎に頼まれた話を、七之助から聞くと、
「あら。お嫁に来たと思ったら、早速、お仲人でっか」
まだ、大阪弁のなおりきらぬ優口調で言って、お雪は楽しげに笑ったのである。
本石町の鐘撞堂の一人娘・お島は、その美貌にもかかわらず「轆轤首(ろくろくび)だ」という奇怪な噂を立てられ、縁談がことごとく破談になっていた。そんな中、持参金目当てで音羽の浪人との縁談が決まるが、その花婿が祝言の直前に神隠しに遭い、行方不明になってしまう。
同じ頃、鉄砲坂の空き地で若侍・青山春彦の死体が発見される。子分の音吉は、その若侍がお島と密会していたのを目撃していた。七之助は、お島がかつて奉公していた旗本屋敷で、彼女が中小姓だった春彦と恋仲だったことを突き止める。
七之助がお島を問い詰めると、彼女は春彦の死を知っていたことを認めるが、犯人については固く口を閉ざす。七之助は、お島を赤子の頃から見守ってきた鐘撞男の咲平に目をつける。咲平は、お島に横恋慕する春彦が悪党であることを知り、彼女を守るために春彦を殺害したと自白する。
お島が演じていた「轆轤首」の狂言は、素行の悪い春彦との縁談を破談にするための芝居だったのだ。咲平の忠義に心打たれたお島は、彼と結ばれる。事件解決後、七之助のもとには、二人の仲人という大役が舞い込むのだった。
本作の主人公。「轆轤首」の噂と殺人事件の裏に隠された、娘の悲恋と忠義の物語を解き明かす。
七之助の子分。美しいお島に一目惚れするが、「轆轤首」の噂に恐れおののく。
本石町の鐘撞堂の美しい一人娘。好ましくない縁談を避けるため、自ら「轆轤首」の狂言を演じる。
鐘撞堂で働く男。捨て子だった自分を拾い、育ててくれたお島一家に深い恩義を感じている。
お島が奉公していた旗本屋敷の中小姓。美男だが素行が悪く、お島の財産を狙っている。
馬道の女師匠。音吉をからかいながらも、事件の重要な情報を提供する。
A. 望まない縁談を破談にするためでした。彼女には、かつて奉公先で恋仲になった青山春彦という若侍がいました。しかし、春彦の素行が悪いため、父親は結婚を許しません。父親が決めてくる養子縁談を断るために、彼女は「自分は夜な夜な首が伸びる轆轤首だ」という狂言を演じ、相手を怖がらせて追い返していたのです。
A. 鐘撞男の咲平です。彼は捨て子だった自分を拾い、育ててくれたお島一家に深い恩義を感じていました。彼は、青山春彦がお島の純情な心を利用し、その財産を狙っている悪党であることを見抜いていました。お島を悪党の手から守るという忠義心から、彼は春彦を殺害したのでした。
A. 第十巻「大黑丸秘譚」に登場したお雪です。父の無実を晴らすために江戸で健気に奔走していた彼女の姿に、七之助は心惹かれていました。事件解決後、二人は結ばれ、この物語の時点では新婚生活を送っています。