七之助捕物帳

青空呪文

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「青空呪文」をお届けします。

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青空呪文

水の深川

 仙台堀の土手の柳が、そろそろ、青みかけていた。
 よく晴れた空に、しみついたように凧が一つ浮んでいる。うなりがつけてあるとみえて、ぶうんぶうん……と、熊蜂の翅音のような唸り声が、ひっきりなしに、空から降っているのだ。
「ちぇっ! うるせえ奴だな」
 癇癪筋を額に浮べて、空を睨んだのは、神田雉子町の御用聞、木兎の藤兵衛。例によって例のごとく、両袖をまくり上げ、肩の骨を聳やかしている。
 そのうしろには、仙十郎と粂三と——お気に入りの乾児が二人。しかし、何か気拙いことでもあったらしく、仙十郎の顔色も冴えてはいなかった。
「御用聞てえしょうべえはな、才能だけじゃあいかねえものだ」
 空の凧から眼を外らして、土手の枯草の中にぺっと唾を吐くと、藤兵衛は、しかめっ面のまま、執念深い声を出した。
「運のいい奴にゃあ、かなわねえのだ。そりゃあ、仙の字、お前に言われるまでもなく、ここんところ、花川戸の七之助に人気が出ているってこたあ、おれだって知っている。だが、あいつあ、運がいいってだけのことよ。博奕みてえなもんだって、なんじゃねえか、ズブの素人がバカ勝するってこたあ、よくあるこっちゃねえか」
「そうでげすとも。素人のバカ勝といってね。川戸の親分なんざ、さしずめ、その口なんだから、今に地金をすり出すにきまってると、あっしも睨んでるんだ。そこへ行くと、うちの親分なんざ、みっちり叩っ込んだうでを持ってなさるんだから、大丈夫だってことよ」
 と、ごますりの粂三が調子を合せた。
 仙十郎はなにも言わなかった。そっぽを向いた顔を、苦笑の翳がふっと掠めたのは、なにを言っても無駄だと諦めたのかも知れない。が、次の瞬間、仙十郎は、そっぽに向けた顔をそのまま、
「や!」
 と、叫んだ。
 蛤橋の上には、びっしりと人間の鈴成りだった。遠いからよく聞きとれないが、なにか、がやがや立騒いでいる様子である。
「え、なんだろう?」
「なんでしょうねえ?」
「土左衛門でも上ったのかな?」
「ともかく、行って見よう」
「合点!」
 粂三が、真先に、尻引っからげて、走り出した。
「ああ、雉子町の親分――」
 弥次馬の中から、叫んだ男がある。どこかで、藤兵衛の顔を見知っているのであろう。
「なんだなんだ?」
 藤兵衛の露払いに、十手の先で、弥次馬をこじ開けながら、粂三が、てすりの際の特等席へと割り込んで行く。
「人間が降りやしたんで」
 と、その男が言った。
「人間が降った? どこからだ?」
 と――これは、藤兵衛。
 だが、返事を待つまでもなく、その場所はわかった。石垣の下に、小舟が三艘、もつれているのだ。そして、その石垣の上に、岸とすれすれに建っている二階家の窓が開いているのである。
「あの二階からか?」
「へえ」
「身投げだろう。男か女か?」
「お生憎さま。男でさ」
「莫迦野郎! お生憎さまってことがあるか。……助かったのか?」
「さあ、舟の手合が、あの石段から担ぎ込んだんですがね」
「打所でも悪かったらしい。どうやら、駄目な様子だったぜ」
 弥次馬の中から、べつな男が、知識をひけらかした。
 その時、一人の船頭の姿が、石段の上に現われた。
「おうい、どうした?」
「駄目だ、駄目だ」
 と、船頭はわめいてから、紐をくびに巻いて、ぐいと締めつける手つきをして見せた。
「親分!」
 粂三が、うろたえた声で呼んだ。
「おう!」
「ど、どうやら——」
「うむ、そうらしい。こうしちゃあ、いられねえ。……仙の宇は?」
「おや?」
 見まわしたが、いつの間にか、仙十郎の姿はなかった。
「ちぇっ、どこに失せやがったか」
 藤兵衛は舌打をしたが、探している心の余裕はなかった。
「しょうがねえ。行こう!」
 藤兵衛は、粂三を促し立てて、その堀際の二階家の表に向ってつむじ風のように、そこの横町を駆け込んで行った。

 丁度その頃、新大橋のあたりを、汗だくになって漕ぎ上っている、一艘の猪牙船があった。船頭は、花川戸義勇隊に加盟している、今戸河岸の庄九郎。
 今日は、門前仲町の船宿に客を送ったかえりみち、蛤河岸の騒動を目撃したので、急を花川戸の御用聞七之助に告げようと、こうして猪牙船を漕ぎまくっているのだった。
「へっ。そこいらの奴ら、みんな明盲ばかりでえ。あれが、ただの身投なんぞであるもんか。奴さんのくびによ、ちゃんと、兵児帯みたいなもんが巻きついていたじゃあ、ねえか」
 漕ぎながら、庄九郎は呟いている。
 門前の小僧なんとかで、七之助の応援団みたいなものを組織してから、 しぜんと探偵眼が開いて来たのかも知れない。

藤兵衛活躍

 門のかたわらに「空々庵」という標札がかかっている。ちょっとした構の住居だった。ここにも、弥次馬はひしめいていた。が、町内の番太郎が門を閉めて張番をしているので、弥次馬たちは、ただ、わいわいと、無責任な流言蜚語をとばし合っているだけだ。
「あっ、親分さんで――」
 きらっと、十手の光に眼を射られて、番太郎は、あわてて耳門を開けてくれた。
 いよいよ高く、肩の骨を突張り上げた藤兵衛の後から、ごますりの粂三も、ひっくり返りそうに胸を反らせて、耳門をくぐった。
 外のさわぎに引きかえて、邸のなかは、しいんと無気味に静まり返っている。
 粂三が、玄関に立って我鳴り立てたが、どこからも返事は聞えて来ない。
 かまわず、二人は、玄関の沓脱に草履を脱いだ。人のいる室は気配でわかる。さらっと唐紙を開けると、びっくりした二つの顔が、こちらを向いた。——町役人の日出吉と医者の玄徳だ。
「あ、親分――」
 日出吉は、場所をあけるように、膝をずらした。
 それには見向もしないで、藤兵衛は、医者の顔から、そこに敷いてある布団に、横柄に顎をしゃくった。
「駄目ですかね?」
「駄目です。打所が悪いんでね。なにしろ、引潮どきで、石垣の下の杭が頭を出していやしたからね」
「ふうん。じゃあ、くびを締められてるってえなあ、嘘ですかね」
「なるほど、くびには兵児帯が巻きつかっていやしたがね。だが、そんなもなあ、死因じゃねえ。御覧じ」
 玄徳は、藤兵藤を眼顔で招いて、仏の顔から白布を取り除けた。もう六十年輩の老人の顔で、一見、はげしい苦悶の表情が、その死顔には刻まれていた。
 藤兵衛は、片膝折りに、布団の襟をすこしまくった。喉のところをさすって見たが、そこには、縊死者に特有の紫色の痣はのこっていない。
「でしょう。杭でげすよ、杭で。その、耳のうしろの打撲傷と、胸に一ヶ所――それで息の根が止ったんでさ」
 と、玄徳が説明した。
 藤兵衛は、めくった布団の襟を、静かに元に戻すと、
「これは――?」
 と、訊問的な眼を、日出吉に向けた。
「へい。当家の主人の空々さんで」
 藤兵衛は、空々庵という、門の標札を思い出した。
「へんな名だな。何をしていたんだ?」
「お金があるんでしょう。 ぶらぶらやって、狂歌などを詠んでました」
「狂歌をね。なにかい、この老人には、生前、世を果敢なむような事情でもあったんだろうか」
「さあ、そいつばかりは。どうも、そんなことがありそうには思えませんでしたよ。とても賑やかな御老人でげしてね。町内の子供を集めて冗談を言ったり……」
「じゃ、なんだな。老人は、人手に掛けられなすったにちがいない、と、こう思ってるんだね?」
「ちょ、ちょっと待っておくんなさい。あっしゃあ、なにも……」
「わかってる、わかってる。 おらあ、なにも、この老人を手に掛けた相手の名を、お前さんに聞こうといってるんじゃねえ。そりゃあ、おれが探し出すんだ。……だが、一事、二事。おれの知りてえことを聞かしてもらいてえ」
「へい」
「こう、さっきから気をつけているけれど、主が不慮の死を遂げてるってえのに、家の者は誰も寄りつかんようだが、ここの家は、この老人の一人暮しだったのかい?」
 はじめて気がついたように、日出吉は、きょろきょろとあたりを見まわしはじめた。
「国重さんは、どうしたんでしょう?」
「そうさな。 さっき、ふらっと、この室から出て行ったようだが。親分と入れちがいぐらいだったかな」
 医師の玄徳が、落ちつきはらった口調で言った。
「そ、そりゃあ、なんだ。老人の息子かなんかでも……」
「親戚の人らしいんです。時々、お見えになっているようですからね」
「じゃ、よその人間だね。そのほかに、家の者はいねえのか、家の者は?」
 ようやく焦燥にかられ出したように、藤兵衛は、はげしく片手を振りながら、いきまいた。
「お春さんという嫖緻よしの娘さんと、下男の初吉の、三人暮しでした。すこし前までは、おしげどんという女中さんがいたようですが」
「現在いない人間はどうでもいいんだ。……で、その、娘のお春と、下男の初吉は、どこにいるんだ?」
「さあ?」
「初吉なら、さっき、わしを呼びに来たよ。それっきりかな。そういえば、なにか、風呂敷包を重そうに抱えていたようだったが……」
「ちぇっ、なんてえことだ。どいつもこいつも取り逃がしてしまやがって……」
 地蹈鞴を踏んで口惜しがった時、
「親分、しょっぴいて参りやしたよ」
 仙十郎が、一人の男の利腕を捩じ上げ、くび根っこをがくがくと押しこくりながら、敷居際に現われた。
「あっ、初吉!」
 思わず、玄徳と日出吉が、異口同音の叫びをあげた。

名乗り出た下手人

「仙の字。 そりゃあ、いってえ、どうしたってえんで?」
 乾児の手柄をほめようともしない藤兵衛。それどころか、抜駈の功名を気にくわないつらつきだった。
「さっき、蛤橋の上で、あっし共のうしろをすりぬけた、こいつの挙動が怪しかったんで、そっと後を尾けてみたんです」
「うむ?」
「するてえと、あっしに届けられているとも知らず、この野郎、正覚寺の墓地にもぐり込んで、こ、こ、これを、萱の茂みの中に隠しやがったんです」
 仙十郎は、肩にひっかけていた風呂敷包を、どさんと畳の上に投げ出した。
 いい音をさせて、風呂敷の口から、五六枚の小判が、青畳にこぼれ落ちた。
「小、小判じゃねえか?」
「へえ」
「みんなそうか?」
「へえ」
「解いて見な」
 藤兵衛は、粂三に顎をしゃくった。
「へい」
 きもを潰したような声を出して、粂三は、風呂敷の結目を解きはじめた。その手が、ぶるぶるふえていた。
「アハハハ。意気地なしめ。小判はかみつきゃあしねえんだぜ」
 しかし、藤兵衛の笑声もうわずっていた。
 結目が解けると、風呂敷の中から、さんぜんと崩れた小判の山。目分量でも、四五百両はあるかも知れない。
「おい。どうしたんだ、これを?」
 胸を反って、藤兵衛は、初吉を睨み据えた。だが、一ぺんに縮み上るかと思いの外、初吉は悪怯れた顔色を見せない。
「ちょ、ちょっと、ゆるめておくんなさいよ。い痛くってしょうがねえ」
 仙十郎のために、うしろ手に捩じ上げられている手を痛そうに、大袈裟に顔をしかめて見せるのだ。
「仙の字。 ゆるめてやんなよ。こうなりゃあ、逃げられもしめえ」
「へい」
「おお、痛え。ひでえ目にあった」
 初吉は、赤くなった手首をさすりながら、
「あっしがこれを隠さなきゃあ、悪人共は、これを盗んでずらかったに違えねえんだよ、親分!」
 昂然として、藤兵衛に相対した。
「悪人共、誰のことだ?」
「もちろん、ヘボ絵師の国重さんと、親不孝娘のお春さんでさ」
「これ、これ、初吉。御主人さまの娘御に向って、なんという口を利くんだ?」
 日出吉が、たまりかねてかたわらからたしなめたが、
「へっ! 親殺しの助っ人だもの、主人の娘もくそもあるもんですかい」
「じゃあ、老人殺しの下手人は、絵師の国重だというのか?」
「そうですとも。お母さんと二人がかりでだ、さんざっぱら、旦那さまの御厄介になりながら、その、恩人の一人娘をたぶらかしたんでさ。それ旦那さまがお許しなさらねえもんだから、旦那さまを殺して、この小判をさらってずらかろうとしたんですよ。だから、あっしが、この小判が悪人共の手に落ちねえうちに隠そうとしたのは、あたりめえのこっちゃござんすめえか」
「初吉!」
「へえ」
「それに間違いねえな」
「決して。 あっしは、この眼で、ちゃんと見たんですからね。わあっ、という、二階の悲鳴におどろいて、あっしは、二階に駆け上って行ったんです。 旦那さまの室の唐紙は開いていましたよ。国重さんは、窓のところに突っ立っているんです。そして、お春さんは、国重さんの足元に、気を失って倒れていました」
「ふうむ!」
「でも、旦那さまのお姿は、どこにも見えねえんです。あっしゃ、やりやがったな、と思ったもんですから、窓に走り寄って、下をのぞきました。すると、旦那さまの体は、石垣の根方の乱杭の中に引っかかって、もう、近所にいた、舟の人たちが騒ぎ出していたんです」
「ふうむ。じゃあ、ずらかったのかな、逸速く——」
 藤兵衛が、唸るようにそう呟くと、
「ずらかりゃしねえ」
 縁側の方から、はじめての声が、こだまのようにかえって来て、眼鼻立のきりっと引締った若い男の顔が、ぽっかりと浮き上るように、人々の眼前に立現われた。
「お前か。絵師の国重というのは——」
「へえ」
「今までどこに隠れていたんだ?」
「隠れてなんかいやあしません。二階の室でお春さんの介抱をしていたんです」
「ふうむ、そうか」
 藤兵衛はうなったが、すぐ、
「この初吉の申立てによると、この老人を手に掛けたのは、お前だというが」
 国重は、憎々しげに、初吉の顔を睨みつけたが、すぐ、その眼を外らして、
「へい」
「間違いねえな」
「へえ」
 と、溜息といっしょにうなだれた。

七之助登場

 花川戸の御用聞七之助と、乾児の音吉を乗せて、矢のように大川を漕ぎ下った庄九郎の猪牙船は、松平陸奥守の下屋敷を左に見て舳を一転上ノ橋をくぐって仙台堀に入った。
 さっきの凧はまだ、深川の青空高く、生(しょう)あるもののようなうなりを撒き散している。
「なんだ、凧か。よく揚ったもんだなあ」
 音吉が、額に手をかざして感心した。
「ああ、あれなら、深川の空では毎日見られまさ。凧揚金作といってね、二十歳にもなって、毎日、凧ばかり揚げている、名物の馬鹿がいるんですよ。馬鹿だけれど、凧揚だけは名人でげしてね」
 櫓を漕ぎながら、庄九郎の口が動き続ける。
「や、ここだっ!」
 うっかり漕ぎ抜けようとして、気がついたのである。猪牙船は、ここで又舳を一転、すうっと水を切って、蛤橋をくぐった。
 もう、弥次馬の姿も、いつしか散っている。蛤河岸の石垣の下から、いつか小舟も影を消していた。そのひっそりとした水際に、細長い、黒い物体がポカポカと浮んでいる。
「なんだろう、あれー」
 音吉がいちはやく眼を止めた。
「拾って見ろよ」
「へえ」
 舟を寄せて、拾い上げたものを、音吉は水を切って、七之助に渡した。
「なんでしょうね?」
「さあ。遠眼鏡じゃないかな」
 七之助は、筒口を眼にあてた。とっさに、目標が、青空の凧に向いたのは、人間の本能のしからしめるところであったかも知れない。が、同時に、
「あ!」
 低い叫が七之助の口を洩れて、そのまましばし、遠眼鏡を眼からはなそうとしない。
「え? なんでげず、親分?」
「ま、一寸、のぞいて見ろよ。絵凧もだいぶ見ているが、こんな絵を見るのは、今日がはじめてだな」
 音吉は、七之助の手から遠眼鏡を受け取って、空を睨んだが、
「なあるほど。すぐそこにあるみたいに大きく見えやがる。おンや、おや、こりゃあ。おかしな絵凧でげすな。一人の奴が、一人の奴を、舟から荒波の中に突き落している絵じゃござんせんか」
「そうなんだよ。……じゃあ、庄の字、大急ぎで、舟を着けてくんねえ」
「へえい」
 軽く櫓を操ると、船は、その横腹を、するすると石段の下につけた。

 香煙縷々(るる)として立昇る仏の枕元には、町内の人々に取りかこまれて、お春と初吉が、悄然と肩を落していた。七之助は、焼香をすまして別室に引取ると、すぐに初吉を呼んだ。
「あっしを呼びつけてどうしようてえ、御料簡なんで?」
 初吉は、はじめから喧嘩腰の口調だった。
「まあ、そう、いきり立つなよ」
 と、七之助は、軽く宥めて、
「雉子町の親分が、早えとこ、下手人をお挙げなすった後にやって来て、おれみてえな駈出しが、未練がましくつっつくのは間が抜けているかも知れねえが、ああいうえれえ親分衆の詮議振を聞いておくのも、満更、無駄でもあるめえと思ってな」
「……」
 初吉は、七之助の真意を探るような、用心深い眼つきをした。
「ざっと聞かしては貰えめえか」
「それならば」
「んだな」
 高飛車な藤兵衛の態度に比べて、下手に出る七之助のものごしに好感を持ったらしい顔色だった。 初吉は、それでも用心深い口調で、絵師の国重が、空々庵主人の下手人として拘引されるまでの顛末を物語った。
 時々、気の利いた相の手をはさみながら、その話を聞き終った七之助は、じっと両眼を閉じて、頭の中で、もう一度事件の筋道を辿り直した。
「じゃあ、国重は、自分で下手人だと名乗り出たんだな」
「そうなんですよ。だから、なあに、今度のこたあ、雉子町の親分でなくったって、すぐに埒は明いたんですよ。早いもの勝たあ、こんなことでしょうよ」
「じゃあ、もう、事件は片付いた、と。しかし、おらア、ひとつだけお前に聞きてえことがあるんだ」
「へえ?」
「国重母子は、お前の主人の厄介になっていたと聞いたが、どんな関係が、両家の間にあったんだろうか?」
「さあ」
 初吉は、又しても、用心深い眼つきをした。
「お前、知らねえのか?」
「へえ。一向に——」
 と、唇が重い。
「じゃあ、娘御に聞こう。お春さんを呼んでくれ」
 とつぜん強硬になった七之助の様子に、初吉は狼狽した。が、最後の足掻きみたいに、
「でも、お嬢さまは、たいへんに疲れていらっしゃるんですがね。気絶をなすって、つい今しがた、やっと旦那さまに御対面なすったんですからね」
「音、呼んで来い!」
 七之助は、初吉の泣言には取合わないで、縁側に腰掛けて鼻毛を抜いていた音吉に、そういいつけた。

おののく娘心

 初吉と入れかわりに、七之助の前に歩を進んで来たお春は、大きな精神的衝撃に打ち挫かれた姿が、いたいたしかった。
 七之助は、あらためてくやみを述べ、おののいている娘心をいたわってから、空々庵主人と、国重母子の関係をたずねた。
「はい。それはこうでございます」
 お春は、打ち挫かれた心に力を求めながら、こう、つつましい前置をして、
「父がまだ、豊後屋広右衛門といって、肥前の唐津で、唐物の商館を開いていました時分、国重さまのお父さまは、その父の店に働いていたのでございます。それはまだ、私が小さかった時分のことですから記憶にはございませんけれど、或時、長崎で仕入れた商品を、船に積んで唐津の店に運ぶ途中、ひどい嵐に遭ったんだそうでございます。そして、その嵐のさ中に、国重さまのお父さまは、波にさらされておしまいなされたんだそうです」
「ふうむ!」
 と、七之助が思わずうなったのは、さっき遠眼鏡でのぞいた、絵凧の柄を思い出したからだった。
「……その後、父も、商売に失敗して、商館を閉めることになりました。店を閉めますと、世間の交際をきらって、江戸に移り住みました。その時、国重さまと、国重さまのお母さまとを、一緒に江戸に伴ったのでございます。……国重さまは、ほんとうの名は、玄之助さまと仰るのでございます。玄之助さまは、小さい頃から絵がお上手でしたから、お母さまと一緒に、私の家に遊びにいらっしゃいますと、私はよく、絵をかいて下さいと、ねだったものでございます。それで、玄之助さまは、十五の歳から、私の父の口利で、歌川豊国さまの弟子におなりになって、国重という名を、おつけになったのでございます」
「その、お母さまという人は、もう亡くなんなすったんですね?」
「はい。去年が七年忌でございました」
「その時、お父さんは、お春さんと国重さんをめあわせるから安心してくれ、と、国重さんのお母さんに約束なすったんじゃありませんか?」
 青ざめていたお春の頬に、ぽっと血の気がさした。
「あら、どうしてそれを……」
「いえ。そうじゃないかと、ちょっと考えただけなんです」
「でも、その後になって、父の気持がかわったのでございます」
「それは、いつ頃からのことですか?」
「はい。あの、父が、はっきりと言葉に出して、私にそれを申しましたのは、二年ぐらい前のことでございましょうか。それと一緒に、国重さまにも、以後、なるべく家に来ないようにと、言い渡したそうでございます」
「でも、お前さんがたは、互いに思い切ることが出来なかったんですね」
「なんとか、父の心をさせようと、国重さまは、ずい分、お頼みなされたようでございますけれど……」
 と、お春の語尾は涙に消えた。
 七之助は腕を組み直して、
「下男の初吉は、いつから、こちらの御厄介になっているんでしょうか?」
「はい。五年くらいになりましょうか」
「それでは、御主人にも信用されていたんでしょうね?」
「ええ。それはもう不思議なくらい……。なにしろ、眼はしの利く男でございますから……」
「では……」
 七之助は、はっとして口を噤んだが、すぐ又、思い切ったように、
「初吉は、お前さんに向って、なにかいやらしい素振でも見せたことは、ないんでしょうか?」
「い、いえ、そんなことはございません」
 思いがけない不意打に狼狽し乍らも、お春ははっきりと否定した。
「だって、初吉は、女中のおしげを気に入っていたんですもの」
「ああ、そうですか。……でも、その女中は、今日はまだ、どこにも、見かけないようですけれど……」
「はい。あの、どうしたわけか、一月ばかり前にとつぜん暇を取って、宿元にかえってしまったんでございます」
「有難う。たいがい聞かせてもらいました」
 七之助は、そう言って一息ついたが、又すぐ、
「国重さんが、自分が下手人だと名乗って出たのを、お前さんは、どう考えていなさるんでしょうか?」
 とたんに、打ちのめされたようによろめいて、お春は、片手を畳に突いた。
 七之助は、思わず膝をすり寄せて、危く、お春の体を支えた。その腕の中で、お春は、大きな喘ぎをくり返したが、やがてそれがしずまると、
「大丈夫ですわ。もうなんともございません。とんだ御心配をおかけしました」
 そっと七之助の腕から離れて、はずかしそうに鬢のほつれ毛を掻いた。
 それから、両手をきちんと膝において、身を固くしたかと思うと、
「私は、私は、見たのでございます」
 そう言って、恐ろしそうに、わなわなと肩をふるわすお春だった。

螺鈿の匣

 空々庵主人の二階の居間には、物珍らしい異国の調度が所せまいまでに置き並べてあった。
——唐津時代の豪奢な生活が、この一室に名残を止めているのであろう。
 床には絨毯を敷き、卓子もあれば椅子もある。七之助とお春は、いとも頼りなげな腰つきで、 その椅子に掛けた。
「父のけたたましい叫び声にびっくりして、私は二階に駆け上ったのでございます。そして、見たのでございます。 あの窓際のところで、国重さまが、父のくびに兵児帯を巻きつけて、そして、はげしく争っているではございませんか。私は、きもをつぶして二人の中にとび込みました。そして、国重さまの腕に取りすがりました。ところが、その時、私の体をはらいのけようとなされた国重さまの肱のために、私は手ひどく鳩尾を突かれて、くらくらと、その場に昏倒してしまったのでございます。……それからのことは、私、悪夢の中を辿っているみたいで、なんにも存じません。気がつきますと、私は、そこの隣りの室に寝かされまして、国重さまが、一人で、私の枕元に坐っていなされたのでございます」
 お春の説明を聞き終ると、七之助は、ぷいと立って窓際に歩いた。
 晴れ渡った深川の空高く、さっきの凧は、まだ、相かわらずうなりつづけている。七之助は、遠眼鏡を持ち直して、その凧を睨んだ。
「あっ、その遠眼鏡は……」
「下の堀に浮んでいたのを拾って来たんです。御主人のものなんでしょうね?」
「はい。父が、大切にしていたものでございますの。この頃は、毎日ここの窓際に椅子を寄せて。なにが珍らしいのか、この遠眼鏡ばかりのぞいていたようでございます」
「なるほど。……で、その他に、御老人が、特に大切にしていられたものはありませんか? たとえば、誰にでもさわられるのをいやがられたというような……」
 七之助は、遠眼鏡をはなして、素速く室のなかを見廻しながら、こう訊ねた。
「そういえば、あの抽出の上の小匣がこうございます。なにが入っているのか、私も存じません。あの小匣には、父はいつも厳重に鍵をかけまして、誰にも触らせなかったのでございます」
 それは、全面に螺鈿を鏤ばめた、美しい小匣だった。七之助はそれを抽出の上からおろして、珍らしそうにひねくっていたが、なにを思ったのか、
「これは、あっしが、しばらく、あずかって行きます」
 と、申し渡した。

凧の秘密

 それから五日目の午後。場所は伝馬町の調所——。
 七之助は、八丁堀与力成瀬陣左衛門の計いで、吟味入牢中の絵師国重に会うはこびだった。
「あっしの罪は決っているんだ。お前さんなんぞが、横合から口を出して、今更、なにを調べることがあるんだ?」
 番人に縄尻を取られて、七之助の前に引き据えられると、国重は、いきなり、こう食ってかかった。
「さあ! ほかの者はどうだか知らねえが、おれだけは誤魔化されねえぜ。おらあ、こう見えても、伊達にお上の御用を勤めてるんじゃねえや」
 七之助も負けぬ口調でやり返した。
「じゃあ、どうしたというんだ?」
「そんなことはなんでもねえや。 空々庵の老人は、自分で自分のくびに兵児帯を巻きつけたんだ。窓際の桟に五寸釘が打ちつけてあった。ぶら下るつもりもなくって、あんなに調度の整った室に、あんな殺風景な真似をするわけがねえじゃあねえか」
「……」
「それを、お前は、止めようとして、老人と争っていたんだ。そこへお春がとび込んで来た。お春は、老人のくびに巻きついている兵児帯を、お前のしわざと勘ちがいしたのだ」
「ああ、もう先を言わないでくれ」
 国重は、顔中を口にして、断末魔の怪獣のように叫んだ。
「勘違いをしたお春が、お前の脇に取りすがったその隙間に、老人はわれとわが身を窓から投げ出した。その、おれの眼力に狂いはねえ筈だ。お前が、下手人を名乗り出た気持はよくわかる。この事件の真相を、お前はお春に知らせたくないんだ」
「そうよ。知らせてなるものか。自分の勘違いから、親の自殺を助けたと知ったら、どんなになげき苦しむか。それを、おれが黙って見ていられるものか。後生だ、お願いだ。あっしを、このまま死なせておくんなさい。死なせておくんなさい」
「ふん。お前、物事というものは、もっと大きく見なければ駄目だろうぜ。お春にとって、お前を親のかたきと思い込ませるのは、もっときびしい苦しみだと、おれには思えるんだがなあ」
 その一言が、国重の急所を働いたのか、彼は、とつぜん、げっそりと肩を落して、打ちのめされたように項垂れてしまった。
「わかってくれたらそれでいい。が、おれはもう一つ、お前に、いやなことを知らせなくちゃならねえ」
「……?」
 国重は、項垂れていた顔を挙げた。その両眼には、今にも溢れそうないっぱいの涙だった。
「お前の親父さんは、船が嵐に遭って、波に浚われたことになっているが、あれは、お春の父親が、荒波の中に突き落したんだ」
「嘘だ。そんなことは嘘だ!」
 と、国重は、咆えるように叫んだ。
「嘘じゃあねえ。お前も知っているだろう。お春の父の室にあった、螺鈿を鏤めたきれいな小匣。あの中に、空々庵主人の、懺悔がこまごまと認めてあった。それによると、豊後屋広右衛門は、唐物屋を表看板にして、密輸入をやっていた。もちろん、お前の父の新蔵もその一味となって手伝っていたんだ。ところが、新蔵は、途中から気持がかわって、主人の広右衛門に密輸入を思い止らせようとした。これが、広右衛門が、新蔵を亡き者にしようと思い立った動機となったんだ」
「……」
「広右衛門が江戸に逃げて来たのは豊後屋の破産のためではない。それは表の理由、ほんとうは、悪事の尻が割れかけたからなんだ。 広右衛門が、お前たち母子の面倒を見たのは、新蔵を殺した罪の償いのためだった。 小匣の中の書物を見ると、広右衛門が、どんなにながい間苦しんでいたかがわかるのだ。で、お春をお前にあわせて、隠してある莫大な財産を護ろうとも決心したのだ。……」
「じゃ、なぜ広右衛門は、途中からその約束を反古にしたんだ?」
「その理由も書いてある。……(国重が、時々自分を見る眼、その眼が、新蔵が波の間から、最後に自分を見た時の眼に段々似て来る。 国重は自分の秘密を知っているのではあるまいか。お春を自分から奪って復讐をしようとしているのではあるまいか……)と書いている」
「ううむ。……じゃ、その罪の重荷に堪えかねて自殺をはかったというんだな?」
「下男の初吉が、その弱点を利用して自滅させたのだ」
「えっ!」
「眼はしの利く男だったので、広右衛門は初吉を信用しすぎた。それで、なにかのことから初吉は、主人の秘密を知ったんだな。だが、それだけのことなら、何事も起らなかったかも知れない。ところが、初吉は、おそろしく猜疑心の強い男だった。ふとしたことから、自分が夫婦約束までも交している女のおしげと、主人との仲を疑いはじめたのだ。それに愛想をつかして、おしげは宿元に逃げ帰ってしまった。初吉はそれを主人の指金だと思っていよいよ主人を恨んだのだ」
「ううむ」
「お前、凧揚金作を知っていなさるかい?」
「噂だけは聞いています。だが、それとこれと……」
「初吉は金作を手馴づけて、一人の男がも一人の男を、船から突き落している絵をかいた凧を揚げさせていたんだよ。空々庵主人の遠眼鏡道楽を知ってたんでね。 そして、その一方、死んだ筈のお前の父親の名前で、脅迫の手紙を送ってたんだ。その手紙も小匣の中に入っていた。こう、大手搦手から攻め立てられちゃ、いい加減薬も利いて死にたくもなろうじゃないか」
「畜生奴!」
 と、うなって、
「で、初吉は、親分に尻尾をつかまれたことを、もう知ってるんですかい?」
「さあ! でも、おれの乾児の音吉てえのが、眼を皿にして見張ってるんだからね。気がついたって、逃げられるこっちゃねえやな」
 と、言ったが、ここで、急に気をかえたように、
「ねえ、国重さん!」
「へえ」
「お前、広右衛門を親のかたきと知っても、お春さんへの気持は、かわんなさらんだろうな」
「広右衛門の罪を赦して、お春さんと一緒になってやんなされば、広右衛門の魂も、迷わず成仏するだろうと思うんだが」
「お、親分、ごもっともです。あ、あっしゃ、いつまでも、いつまでも、お春とは、はなれるこっちゃござんせん」
 泣き叫ぶような声で言って、国重は牢髭の頬を涙で洗った。

「青空呪文」あらすじ

深川の蛤橋で、老人・空々庵が二階から転落死する。当初は身投げと思われたが、首に兵児帯が巻かれていたことから、事件の様相を呈し始める。現場に駆け付けた七之助は、堀に浮かぶ遠眼鏡を拾う。その遠眼鏡で空を見上げると、そこには男が男を海に突き落とす不気味な絵が描かれた凧が揚がっていた。

空々庵の娘・お春と恋仲だった絵師の国重が「自分が殺した」と自首するが、七之助はその自白に疑念を抱く。お春の話から、空々庵の過去、そして国重の父が海で謎の死を遂げたという事実が浮かび上がる。七之助は、空々庵が大切にしていた螺鈿の小匣から、彼の懺悔録を発見する。

全ては、空々庵家に仕える下男・初吉が仕組んだ復讐劇だった。空々庵、本名・豊後屋広右衛門は、かつて密貿易の仲間だった国重の父を裏切り、海に突き落として殺害していた。その罪の意識に苛まれる広右衛門の弱みを知った初吉は、凧に過去の悪事を描き、脅迫状を送りつけて彼を精神的に追い詰め、自殺に追いやったのだ。

国重は、恋人のお春が「父の自殺を自分が手助けしてしまった」と思い悩むことを恐れ、身代わりとなって罪を被ろうとしていた。七之助は全ての真相を解き明かし、初吉を捕縛。親の因縁を乗り越え、若い二人は結ばれるのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。空に浮かぶ不気味な凧を手がかりに、複雑に絡み合った過去の因縁を解き明かす。

音吉(おときち)

七之助の子分。ライバルの御用聞・藤兵衛を出し抜こうと意気込む。

空々庵(くうくうあん)

本名・豊後屋広右衛門。深川で隠居暮らしをしていたが、謎の転落死を遂げる。過去に大きな罪を犯している。

お春(おはる)

空々庵の心優しい一人娘。絵師の国重と恋仲にある。

国重(くにしげ)

歌川豊国門下の絵師。空々庵の家に寄宿している。父を海で亡くした過去を持つ。

初吉(はつきち)

空々庵に仕える下男。本作の真犯人。主人の過去の罪を利用し、巧妙な手口で復讐を遂げる。

Q&Aコーナー

Q. 「青空呪文」とは、具体的に何を指しているのですか?

A. 下男の初吉が、主人である空々庵を精神的に追い詰めるために使った巧妙な手口のことです。彼は、凧揚げ名人に依頼して、空々庵が過去に犯した「仲間殺し」の場面を描いた凧を毎日空高く揚げさせました。遠眼鏡で空を眺めるのが趣味だった空々庵は、その凧を見るたびに過去の罪を思い出させられ、まるで青空から呪文をかけられているかのように精神を病み、ついには自殺に追い込まれてしまいました。

Q. なぜ絵師の国重は、自分が犯人だと嘘の自白をしたのですか?

A. 恋人であるお春を守るためです。空々庵が窓から身を投げた時、お春は父を止めようとした国重の姿を、父を殺害している場面だと勘違いしてしまいました。国重は、お春が「自分の勘違いが父を死なせてしまった」と知れば、その罪悪感に一生苦しむことになると考えました。そこで、彼女を守るために、自分が全ての罪を被って下手人になろうとしたのです。

Q. 下男の初吉が主人をそこまで恨んでいた理由は何ですか?

A. 彼は、主人である空々庵が、自分の恋人であった女中のおしげと密通していると邪推し、強い恨みを抱いていました。(実際にはそのような事実はなく、おしげは初吉の猜疑心に愛想を尽かして去っていました。)その個人的な恨みを晴らすため、主人が過去に犯した罪を知ると、それをネタに復讐することを計画したのです。