七之助捕物帳

春風幽霊

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「春風幽霊」をお届けします。

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春風幽霊

一、鳴久馬屋の失踪

 この二三日、めっきりと春めいた、暖い日が続いている。
 現金なもので、浅草山之宿の髪結床、床甚の店には、定連の集まりが、急によくなった。今夜も、大工の政吉、魚屋の万作、植木屋の十太郎、小間物屋の彦八、その他。それに、珍らしく、女師匠、常磐津文字花の妖艶な年増姿まで割り込んで、なにやらひとりでまくし立てているのは、どうやら、一座の千両役者たちを、総なめにしている形だ。その時。
「へえ、今晩――」
 入口の油障子が細目に開いて、ひょいと覗き込んだのっぺり顔は、花川戸の御用聞、七之助の子分音吉。
「おっ!」
 だが、すぐ、こううろたえた声を出して、くびを引っ込めた。――馬道の女師匠は、音吉にとって、大の苦手なのだ。
「あら、コブ吉哥兄さん、私の顔を見たからって、逃げなくってもいいじゃありませんか」
 からかうように、文字花の声が、絡んで行った。こう呼びかけられては、引くにも引かれぬ音吉の気性だ。
「コブ吉だけは止しにしておくんなさい。へまをやっちゃ、こぶをこしれえたのは、はじめのうちだ。今じゃ、あっしも、一人前には立働いていやすからね。こぶなどこしらえやしませんよ」
 度胸を決めて、敷居を跨ぐと、
「なにいってんのさ。近頃は、親分が独舞台ばかりで、お前さんが働らき場がなくなってるんじゃないのかい」
「違えねえや。だから、ここんところ、この腕が、夜泣をして困ってるんだ」
 音吉は、あっさりと兜を脱いで、さすり栄もしない、骨細の腕をさすって見せた。
「ホホ。その腕がねえ。その腕の夜泣じゃ、近所迷惑にもなりやすまい」
 と、笑ったが、すぐそのいたずらっぽい笑いを消して、
「どう、コブ吉哥兄さん。御用のネタを上げようか。冗談では無くさ」
「今も、そのことで、師匠の話を聞いてたんだ」
 大工の政吉も、横合から言葉を添える。かつぐつもりでもないらしい。音吉は、ごくりと喉仏を鳴らして、
「昨夜の将棋の負越を取返しに来たんだけれど、そんな耳よりな話があるなら、将棋どころじゃねえな。師匠、いってえ、御用のネタというのは……」
「市村座の弁天小僧に、赤星重三の役で演ている鳴久馬屋が、昨夜から、どこへ行ったか行方が知れねえんだってよ」
 政吉の言葉に、音吉は、はっと思って、探るような眼を、文字花にやった。芸の素質はよいが女にだらしがなさすぎる。もう少し漁色の道をつつしんだらいい役者になるがなあ。――という、苦目三郎についての噂は、音吉も度々耳にしている。そして、又、馬道の女師匠常磐津文字花がこの日頃、苦目三郎に、血道を上げているという噂も——。
「いやだよ、コブ吉哥兄さん。お前、あたしを疑っているのかい?」
 文字花は、音吉の眼付に答えて、
「あたしゃ、今日も、市村座をのぞいたんだがね。赤星重三は、苦目三郎のかわりに、九蔵が演っているのさ。昨夜から急病との触れ出しなんだがね。なんのこった、心配になって、親方の家へ駈けつけて見たら、昨夜、出かけたっきり、帰ってないんだってさ」
「だから、あっしゃ、柳橋の、あれと、どっかへ、しけ込んでいるんじゃねえか、と、考えたんだが、師匠は、そんなこたあねえ、と仰言るんだ」
 と、魚屋の万作。
「そうだとも。親方はね、舞台をすっぽかしてまで、相手を勤めるほど、あの子に打ち込んじゃいなさらないって、言うのさ」
「あっしも、師匠と同じに考えますね。柳橋との仲も一頃のようなら、そりゃ、そんなことがないとも言えませんけどね。この頃じゃ、親方の方から、すっかり、秋風を吹かせていなさったんですからね」
 小間物屋の彦八は、さすがに商売柄、色里の事情にはくわしかった。
「だからねえ、コブ吉哥兄さん」
 文字花は、得たりとばかりに、
「柳橋へんから探りを入れて見たら、案外、大きな、手柄の糸口がつかめるかも知れないじゃないか。もしも、そうなら、後でおごってもらいますよ」
 煽てられ、ぽんと背中を叩かれて、
「まあ、待っておくんなさい。も一度とっくりと話の筋道を考え直して見なくっちゃ」
 しさいらしく腕を組み直して、さもさも一人前らしく、小首なぞを傾げてみる音吉だった。

二、月夜の悪夢

「じゃ、たしかに、鳴久馬屋には、昨日から、会っちゃいないというんだね?」
「ええ、ひょっとしたら、昨夜はお目にかれるかと思ったんですけれど、とうとうお見えにならなかったんです。……なにか、親方の身の上に、かわったことでも起ったのでしょうか?」
 花丸は、茶袱台をはさんで、のしかかるように坐っている七之助の顔を、不安な眼差で見上げた。
 ここは、柳橋の料亭、万八楼の奥まった小室。もちろん、七之助は、この、柳橋でも指折りの流行っ妓を、客になって呼んでいるわけではない。
「ほんとに知らなければ言って聞かせるが、苦目三郎は、昨夜、芝居がはねてから、ふらっと家を出かけたまま、いまだに行方が知れないんだ。今日の市村座は、苦目三郎の赤星重三を、九蔵がかわりに演ったそうだ。……そうそう、お前、今、ひょっとしたら、昨夜は会えるかも知れないことになっていた、と言ったようだな。どこかで、そんな約束があったのか?」
「なにも、二人っきりの約束があったわけではありませんけど、二人とも、三笑庵の明月会の定連なものですから」
「三笑庵というと、蔵前の札差、山城屋の寮だね」
「はい。西ヶ原村の、淋しい、原っぱの中の一軒家ですの。そこで、毎月一度、十五夜の晩に、みんなで集って、いろんな趣向を考えて遊ぶことになってるんです」
「その話なら、薄々聞いて知っている。……ああ、そうか。昨夜は十五夜だったのか。で、昨夜の趣向は……」
「それがね、親分さん。じつは、幽霊騒ぎで、なにもかも、滅茶々々になっちまったんです」
「なに、幽霊騒ぎ?」
「ええ、出たんです、幽霊が」
 花丸は、ぞくっと声をふるわせて、思わず肩を寄り添った。
「ハハハハ。そんな莫迦なことが……」
「いいえ。あたしも、昨日が昨日まで、そんなものを信ずる気にはなれなかったんですけれど、昨夜という昨夜は、この眼でちゃんと見たんですもの」
「ほほう?」
 急に、興味を唆られたように、七之助は、話を促す、熱心な眼つきをした。
「昨夜も、今夜みたいに、暖かだったでしょう。だもんですから、季節外れのお月見もよかろうと、三笑庵の裏手の原っぱの真中に茣蓙を敷いて、てんでんに、勝手な駄洒落なぞをとばしながら、盃を廻してたんですの。すると、山城屋の旦那が、ひょっこり、こんなことを言い出しなされたんです」
「ははあ?」
「原っぱの向うに、ぽっつりと、月の光を浴びて浮んでいる小さな祠を指して、こないだの雪の朝、あの石神堂(いしがみどう)の木連格子の中に、旅の女が凍え死んでいた。――と、こう仰言るんですの。あたし、ぞっとして、思わず、かたわらの、其堂(きどう)先生にすがりつきましたわ。すると、びっくりするじゃございませんか。その、其堂先生が、わあっ、出た! と、言って、腰を抜かしておしまいなされたんですもの」
「ふむ、ふむ!」
 ぐうっと、茶袱台の上に半身を乗り出して、七之助は、いよいよ熱心な眼の色だった。
「はっとして、恐々、顔を上げて見ますと、ほんとなんですの。あの、石神堂の祠のあたりを、真白な裾を、長く引いた幽霊が、ふわりふわりと迷い歩いているんです。わッ、と、あたしも思わず叫んで、腰を抜かしている其堂先生の胸の中に、顔を押し込んでしまいました。すると、あたしたちのほかにも、意気地のない人がいると見えて、あっ、しょうがねえな。銚子をこぼしてしまやがった。――という、山城屋の旦那の舌打が聞えました」
「話の腰を折るようだが、昨夜の集りは、どんな顔触だったんだえ?」
「そうですね。山城屋の旦那のほかには、同じ蔵前の巽屋(たつみや)の旦那、本をお書きになっている鶴屋其堂先生、俳諧師の紫雀(しじゃく)先生、山田玄洞先生という漢法のお医者さん、吉原の幇間の竹廼家(たけのや)一蝶さん、女では、松住町の都一(みやこかず)美世さんに、あたし、という顔触でござんした。でも、その中で、幽霊が出ても平気な様子でいらっしったのは、山城屋の旦那と、玄洞先生と、二人きりだったようですわ」
「ふむ。どうしてそれが、わかったんだ?」
「どうしてって、あたしは其堂先生の毛むくじゃらの胸に、顔を押し込んで、がたがたえていながら、お二人の、落ちつき払った話声を聞いたんですもの」
「ふむ。なんと言って――」
「先生、やっぱり、こないだの雪の朝死んでいた旅の女の幽霊でしょうか? と、山城屋の旦那がお訊きになると、そうでしょうね、ひょっとしたら、親か夫の敵でも探していたのかも知れませんね、それで死に切れなくなって迷っているのでしょう。――と、玄洞先生が、これも、山城屋の旦那に劣らない、平気な声で、そう言って居られました」
「それで、幽霊騒ぎは、その後、どうなりました?」
「間もなく、どっかへ消えてしまいました。あっ、消えた、石神堂の中へ消えちゃったぞ! 山城屋の旦那の、その言葉を聞いて、おずおず顔を上げて見ますと、もう、そこには、なにもいなかったんです」
「それっきりかい? 幽霊は、二度と出なかったんだね?」
「さあ、どうですか。あたしたちは、そんな気味の悪い場所には、もう一時もいられませんから、すぐ、茣蓙を巻いて、三笑庵の座敷に引上げたんですから」
「鳴久馬屋は、とうとう来なかったんだね?」
 七之助は、話題を、又もや、そこへ引戻した。
「ええ。でも、親方は、これまでだって、あまり熱心な方じゃなかったんです。ただ、山城屋の旦那には、永年、ひいきの御恩があるものですから」
「でも、お前に会えるという楽しみがあるじゃないか」
「あらっ、ひどいわ、親分! そりゃ、一時はね、そんな時代もあったかも知れませんけど……」
 急にしおれて、花丸は、その様子のいい撫肩に、ほっと、波を打たせた。

三、石神堂の秘密

 十八夜の月が、東の野の涯からはなれている。
 こう夜が更けても、寒さ知らずの春先の風が、武蔵野の、枯薄の葉を鳴らしつづけている。ところが、こんな時刻、こんな場所に、その枯薄の細径をわけて、人間の姿が二つ。――花川戸の御用聞七之助と、子分の音吉だ。
 やがて、枯薄の茂みが途切れて、急に、湖のように、広々と、芝草の原が展けた。行手に、ひょろひょろとした、三本松を背にして、一宇の小さな祠が、ぽっつりと、月の光を浴びている。
「あれだ、音吉」
「わあ、いやんなっちゃうな。まさか、今夜も、出るんじゃねえんでしょうね。あっしゃ、ほかにはなにも、恐いものはないが、幽霊ばかりは苦手でげすからね」
「幽霊退治に来たんじゃないか。出てくれないじゃ、お話にならねえ」
「いやだね。あんまりおどかさないで下せえよ。あっ、お、親分、ま、待っておくんなせえ」
「莫迦! そんな声を出す奴があるか。どうしたんだ?」
「こ、腰が抜けちゃいやしたんで」
「しょうがねえな。今からしてそんなことじゃ、ほんとに幽霊が出たら、どうするつもりだ」
 両手を引張り起して、膝小僧で、腰のあたりに活を入れると、
「ああ、もう、大丈夫でげす」
 音吉、額に浮いた脂汗を、肱を曲げてこすり取りながら、うろうろと、とばした草履の片方を探している。
 近寄って見ると、石神堂の祠は、思ったよりも大きかった。これならば、窮屈に膝を曲げたら、木連格子の中に二人くらいは雨宿りができそうだ。

「お前、眼を皿にしてな。しばらく、外を見張っていてくれ」
「えっ、誰か来るんですかい?」
「来るかも知れん。来ないかも知れん」
 そんなわけのわからないことを言って、七之助は、一人で木連格子の中に入った。拳を固めて、賽銭箱のわきだの、矢大臣の石神のうしろだの、しきりに、根気よく叩きまわっている。やがて、今度は、用意のふところ提灯に、灯をとぼした。そして、矢大臣の台石のかたわらを調べていたが、
「うむ、そうらしい」
 と、呟いて、
「音の字!」
「へえ」
「一寸、この提灯を持っていてくれ」
「へえい」
 七之助は、提灯を、音吉に渡して、矢大臣の石像を、賽銭箱の上へ転した。それから、台石に両手をかけて、一方の壁に向ってぐうっと力を入れた。台石はずるずると、床をすべって、そこに、洞然と口を開いたまるい竪穴。黴臭い、しめっぽい風が顔を打った。
「やっぱり、そうだったか」
 呟くと、七之助の脇の下から、その穴をのぞき込んだ音吉が、
「親分は知ってなすったんですかい、この穴を」
「だいたい、こんなことじゃないかと、考えていたんだ……。提灯をかしてくれ」
 提灯をかざして調べると、一方の壁に、一条の縄梯子がたぐり上げてある。まだ、取かえたばかりのような、真新しい縄梯子だった。
「ふむ。いよいよ、おれの想像があたって来たぞ」
 七之助は、その、一丈あまりの縄梯子を、壁の内側に垂らした。
「いいか、音。よく見張りをしてなくっちゃいけねえぜ。この祠に用のありそうな奴が現われたら、誰でもいいから、ふん縛っちまいねえ」
「えっ! じゃ、親分は、一人で、その穴の中へ、入って行こうてんですかい? 後生だ、親分、あ、あっしも、一緒に連れてっておくんなさい」
「莫迦野郎! おれたちが入った後で、誰かに元通りこの穴を塞がれたらどうするんだ?」
「なある、ね。じゃ、よござんす。あっしゃ、ここで、眼を皿にしてがんばっていやすから、親分も、よっぽど気をつけておくんなさいよ」
「大丈夫。じゃ、行って来るよ」
 七之助は、ふところ提灯の紐を腰に結びつけて、縄梯子を下りはじめた。
 その一段毎に、提灯の灯は、地下に向って遠ざかり、祠の中の闇は濃くなって行く。ふと、白い幽霊の幻が、音吉の眼前をふわっと掠めて過ぎて行った。
「な、なにくそっ! こ、恐かあねえや。ううん、ううん」
 歯を食いしばり、十手の柄を、砕けよとばかり握りしめながら、音吉は唸っているのだ。

四、瀕死の幽霊

 天井も低い。はばも狭い。
 人一人やっと通れるくらいの抜穴だった。
 足くびまで埋るようなぬかるみがあるかと思うと、かさかさに乾燥した地盤のところがあったりする。壁が崩れ落ちて、なかば穴の塞がれているところは、腹這いになって越えなければならなかった。滴のしたたる音が、かわいた洞窟の壁に反響しているのは、夢の中の不思議な音楽を聞いているようであった。
 五六丁は歩いたかも知れない。
 急に、天井も高く、はばも広くなった。胸の中が、広々と、らくになったような気がした。七之助は、立止って、そこの臭い、かわいた空気を、腹一杯吸い込んだ。
 又、歩き出した。
 だが、ものの三間も歩くと、
「おや?」
 壁に突き当ったのである。そこが、行き止りなのだ。
 探すまでもなく、その突き当りの壁の左寄りに、上へ向いた、穴の入口があった。勾配の急な石段になっている。
 静かに、用心深く、十二ほど石段を数えると、いやというほど、頭を天井にぶっつけた。眼から火が出たようであった。しばらくは、頭がふらふらして、なにをする気力も、なにを考える気力も、失ってしまった。
 しかし、やがて、気力は恢復した。
 今度は、前よりも要心ぶかく、手を伸して天井を探った。
 すべっこい石の表面を撫でるような感触である。ふところ提灯をかざして見ると、やはり石であった。庭石でも転して来て、穴の入口を塞いだものらしい。よほど大きな石と見えて、手で突張ってみても、びくともしない。
 七之助は、すぐ、諦めて、又、石段を下りて行った。
「おやっ!」
 さっきは、前方にばかり気を取られて、気がつなかったのにちがいない。——壁の間から、あかりが洩れているのだ。
 提灯を、背中にまわすと、そのあかりは、一層、はっきりと見えた。近づいて見ると、そこは、荒板を打ちつけた板戸であった。
 七之助は、十手の先で、こつこつと板戸をたたいた。
 歓喜の叫びか、驚愕の叫びか、人間の声とも思われぬ異様な叫びが、その板戸の先から聞えて、猛烈ないきおいで、とびかかって来たものがある。
「おっ、と」
 倒れかかる板戸から、危く身をかわすと、それを躍り越えて、一人の男が、
「あ、旦那! 山城屋の旦那!」
 泣きむせびながら、七之助の胸元にむしゃぶりついた。
「やっと、迎いに来て下すったんですかい? よかった! 間に合ったんだ。あっしゃ、あぶなく、気がふれるところだったんですぜ」
 七之助は、一つに縺れて、ころがりそうになった体を、やっと持ち直すと、
「ちがう。ちがうよ。おらあ、山城屋じゃ無え」
「えっ!」
 のけぞるように唸って、男は、はじめて、しみじみと、不思議そうに七之助の顔を見直した。
「お、お前さんは……」
「御用聞だよ。花川戸の七之助という……」
「ああ、花川戸の親分さん」
 安堵に、声もはずんで、
「あ、あっしゃ……」
「知っている、知っている。花川戸に住んでいて、鳴久馬屋の顔を、知らなくって、どうするものか」
「で、でも、あっしがここに閉じ込められていることが、どうして分ったんです?」
「餅は餅屋だよ。でも、正直のところ、生きているお前さんの顔を、見られようとは思わなかったぜ」
「そうでげすかい?」
 苦目三郎は、腹の底から、不思議な溜息を絞り出して、
「親分、一寸入って見ておくんなさい」
 袂を取られて、倒れている板戸を跨ぐと、そこは、六畳ぐらいの広さの、洞窟であった。行燈が灯り、荒筵が敷いてあるのだ。隅のところに、幽霊衣裳らしい白衣が、くしゃくしゃに丸めて投げ捨ててある。荒板を打ちつけた簡単な台の上には、水瓶らしい器もある。そして、かたわらの盆の上には、食い残しの、かたくなった麦団子が、まだ、かなり沢山残っている。
「嬲り殺しにされかけたのですかい?」
「い、いや!」
 苦目三郎は、言葉に力をこめて、強く頭を振った。

五、巨商の欠伸

「どういうわけで、あんなところに閉じ込められていなすったのか?」
 窓の外の鄙びた庭に、梅の花が匂っている。——朝茶のかおりを楽しみながら、七之助は、打ちくつろいだ気持で、こう訊ねた。
 ここは、上富士前の、稲荷屋という宿屋の二階。先代の又五郎の時代から、懇意にしていた家である。その心安立てに、昨夜、三笑庵の秘密の地下道から、苦目三郎を救い出すと、真直にここまで連れて来て、夜中の表戸を叩いたのだ。そして、無論、相手は半死半生の態たらくだし、夜も更けているし、一切、疑問を宿題にして、一先ず、そのまま寝に就かせたのであった。
 返事のかわりに、苦目三郎は、
「親分、これを御覧になって下さいまし、この手紙が、麦団子や、水瓶と一緒に、あの地下室の台の上に載せてあったんです」
 ふところから取り出して、七之助の前に置いた一封の手紙。
 無言で手に取って、展いて見ると、雅趣のある、枯淡な筆跡が、
「お前さまの昨今の不行跡、聞くに忍びず。名を惜しみ、芸を惜しむ心あらば、よくよく身をつつしまるべし。愚考は、お前さまの芸を惜しむのあまり、ここに、三省の機会を与うるものなり。三笑庵老人」
 巻き収めて、
「ふうむ。そうだったか」
 七之助は、唸るような溜息を吐いた。
「御用聞の頭なんて、大抵、きまっている。あっしゃ、花丸を中にはさんだ、痴情沙汰だと睨んでいた。山城屋は、なぶり殺しにするために、親方を、あの地下室に、閉じ込めたんじゃなかったんだね」
「そうなんです。山城屋の旦那は、あっしにお灸を据えて下すったんです。だから、こうして、親分に助けられて、無断でずらかったりしちゃ、済まんようなもんですけど、でも、もうもう、あんな薄っ気味の悪い場所なんざ、沢山ですよ。もう一日遅かったらほんとに、あっしゃ、気狂いになっていたかも知れませんよ」
 苦目三郎は、朝風呂に入って、さっぱりと髭を剃った頤のあたりを、いとしそうに撫でまわしながら、
「でも、親分は、あっしが、あんなところに閉じ込められているという手掛を、どこでどう、おつけになったんです? 早い話が、あんなところに、あんな抜道のあることを知っているのは、山城屋の旦那と、あっしと、二人っきりの筈なんですがね」
「だって、幽霊なんて、じっさいはある筈もねえものが、あの石神堂から出たんだ。そして、又、その中へ消えちゃったんだ。これじゃ、誰しも、あの石神堂に、なにかのからくりがあると感づかあね。おれは、奉行所に行って、半日がかりで過去帳を調べて見た。その結果、あの三笑庵が、市松小僧という大泥棒の隠家のあった、屋敷跡だと分ったんだ。市松小僧ならば、まさかの場合の抜道ぐらいこしらえていたかも知れないと考えたって、可怪しかないからね。それで、昨夜、あそこへ行って調べて見ると、案の定、石神の台石を床にずらした跡がついているんだ」
「へえ。やっぱり、蛇の道は蛇ですね」
「親方のつもりでは、あの抜穴を通ってみんなを驚ろかす。それから又、その抜穴を引返して、幽霊の着物を脱いで、さもさも時刻に遅れて駈けつけでもしたように、なに食わぬ顔をして、三笑庵で、みんなの引上げて来るのを待っている。——と、そういう寸法だったんでしょうね」
「まるで、見ていたようなことを仰言る」
「それっくらいの筋書なら、誰にだって、読めまさ。……で、幽霊に化けて、みんなをおどろかしてやろうなんて趣好を思いついたのは、やっぱり、山城屋ですかい?」
「ええ。その前に、一度、山城屋の旦那と、其堂先生と、幽霊論をたたかわしたことがござんしてね。山城屋の旦那は、幽霊なんて、いないというんです。其堂先生はいるというんです。そんなことがあったもんですからね、こりゃあ、一番、お前に幽霊になってもらって、其堂先生に花を持たして見るのも面白いな、って、こうおっしゃるんです。抜穴のことは、その時、山城屋の旦那から聞いたんですよ。あっしも、こんな悪戯なら、きらいじゃありませんし、抜道をめぐるなんて冒険の快味も、一寸、乙じゃありませんか。あっしゃ、二つ返事で引き受けたんですよ。ハハハハ。後で考えると、山城屋の旦那に、うまいこと、一杯、はめられたんですね。……だが、待てよ。ねえ、親分あの地下室に、行燈だの麦団子を持ち込んだり、入口を塞いだりしたのは誰でしょうね。山城屋の旦那には、とても、そんな余裕がない筈だし……。それに、屋敷の方を塞がれて、泡を食って、もう一度石神堂のところへ引返したら、その時には、もう縄梯子まで外されていたのですからね」
「山城屋、あそこの寮に、力持の下男でも使っているんじゃないのか?」
「岩蔵という唖の下男がいますよ。こいつなら、糞力のある奴です」
「じゃ、それだよ。そいつが、山城屋の手足になって立廻ったんだ。あの、入口をふさいでいた庭石は、普通の人間の手に負えるしろものじゃねえからな。鳴久馬屋さん、あそこの入口は、どうせ三笑庵の屋敷内だろうが、どこに開いているんです?」
「旦那の居間の床下ですよ。畳を剥いでもぐるんです。あの旦那は、そんな秘密が好きなんですからね。……ひょっとしたら、山城屋の旦那も、あそこに、あんな秘密の抜穴のあるのを知って、あそこの土地を買いなすったのかも知れませんね」
「そんなところだろう」
 七之助は、自分で、鉄瓶の湯を急須につぎながら、
「でも、親方。今度の一件は、これまであっしが手掛けた事件と、一寸、勝手がちがっていて、当惑しましたよ」
「ははあ?」
「普通なら、山城屋をはじめ、あの晩の面々を、虱潰しに当って見るところなんですがね。そんなことをして、抜穴の両方の口を、ほんとうにつぶされでもした日には、全く手のつけようがなくなっちまいますからね」
「成程。しょうばいによって、いろいろと苦労があるものですね」
 苦目三郎は、甦ったような眼差を、又、窓外に遊ばせながら、
「でも、あっしも、これで、どうやら眼が覚めました。ねえ、親分。三日三晩も、あんな場所に閉じ込められていたら、あっしみたいなぼんくらだって、いい加減、ものを考えさせられますぜ」
 どこかで、若い女の声が、野放しみたいに笑いこけている。——音吉め、例によって、ここの家の山出しの女中をつかまえて、埒もない冗談口でも叩いているのであろう。

「春風幽霊」あらすじ

人気役者・鳴久馬屋苦目三郎が、芝居の舞台をすっぽかして失踪した。子分の音吉から話を聞いた七之助は、苦目三郎の馴染みの芸者・花丸を訪ねる。花丸の話によると、失踪前夜、苦目三郎も参加するはずだった月見の宴で、本物の幽霊が出るという騒動があったという。

宴が開かれたのは蔵前の札差・山城屋の寮「三笑庵」。その裏手にある石神堂から現れたという幽霊に興味を持った七之助は、現場を調査する。すると、石神堂の床下から、三笑庵の床下へと続く秘密の地下道を発見する。

七之助が地下道を進むと、その奥の洞窟に、失踪したはずの苦目三郎が閉じ込められていた。彼は、女癖の悪さを案じた山城屋の旦那に「灸を据える」と言われ、幽霊に扮して皆を驚かせるという悪戯に加担した。しかし、それは彼を地下道に閉じ込めて反省させるための山城屋の芝居だったのだ。

三日三晩、暗い地下室で過ごした苦目三郎は、これまでの自らの不行状を深く反省する。事件は、粋な旦那衆が仕組んだ、一風変わったお説教だったのである。七之助は、事件の真相を胸に秘め、改心した苦目三郎を静かに見送るのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。人気役者の失踪事件と幽霊騒動の関連を探り、意外な真相にたどり着く。

音吉(おときち)

七之助の子分。役者失踪の噂を仕入れ、事件のきっかけを作る。幽霊が苦手。

鳴久馬屋苦目三郎(なるくまや くめさぶろう)

市村座の人気役者。芸の腕は良いが大変な女好き。ひいきの旦那によって懲らしめられることになる。

山城屋(やましろや)

蔵前の大店の札差。苦目三郎のひいき筋。彼の女癖の悪さを案じ、一風変わった方法でお灸を据える。

花丸(はなまる)

柳橋の売れっ子芸者。苦目三郎の馴染みで、彼が参加するはずだった月見の宴での幽霊騒動を七之助に語る。

Q&Aコーナー

Q. 結局、幽霊の正体は何だったのですか?

A. 幽霊の正体は、失踪したはずの役者・鳴久馬屋苦目三郎本人でした。彼は、ひいきの旦那である山城屋に頼まれ、月見の宴の余興として、石神堂の地下道を使って幽霊に扮し、皆を驚かせるという悪戯に協力していました。

Q. なぜ苦目三郎は地下道に閉じ込められてしまったのですか?

A. それは、彼の女癖の悪さを心配した山城屋の旦那が仕組んだお説教でした。山城屋は、苦目三郎に幽霊役をさせた後、彼をそのまま地下道に閉じ込め、数日間頭を冷やさせて反省を促そうと考えたのです。つまり、誘拐や監禁といった事件ではなく、粋な旦那衆による一種の「お灸」だったのでした。

Q. 七之助はどのようにして地下道の存在に気づいたのですか?

A. 七之助は、そもそも幽霊の存在を信じていませんでした。芸者・花丸から「幽霊が石神堂に消えた」という話を聞き、その祠に何らかの仕掛けがあると推理しました。奉行所で古い記録を調べ、祠のある場所がかつて大泥棒・市松小僧の隠れ家だったことを突き止め、「まさかの場合の抜け穴があるはずだ」と確信。実際に祠を調べ、隠された地下道を発見しました。