七之助捕物帳

大黑丸秘譚

著:納言恭平

江戸の闇を切り裂く、名探偵の推理

「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。

鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「大黑丸秘譚」をお届けします。

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大黑丸秘譚

一、蒔絵の挿櫛

 花川戸の御用聞七之助が、八丁堀の与力成瀬陣左衛門の役宅に顔出をすると、かねて顔馴染の同心浜中茂平次が来合せていた。
「おう、七之助。これは丁度よいところに来てくれた。じつは、下谷長者町に人殺しがあって、これなる浜中氏が、これから出掛けられるところなんだ。お前、手が空いていたら、一緒に行って手伝ってやってくれ」
「うむ、そうしてもらえば助かる」
 と、茂平次も言った。——彼は、すでに四十もなかば過ぎて、八丁堀の同心仲間でもいい顔の侍。大して才気走った男ではないから、大向うをうならせるような派手な手柄を立てていないが、性格が円満で功を焦らないので、仲間の気受けは良かった。
「御丁寧なお言葉で痛み入ります。ろくなお役には立たないかも知れませんが、お供をさせて頂きます」
「そうか、有難い。お前に手伝ってもらえれば、こんな心丈夫なことはないからな。では参ろうか」
 茂平次は気忙しそうに立上った。
 二挺の駕籠は宙をとんだ。下谷長者町の裏通りは、もう威勢のいい弥次馬に溢れていて、一軒の、小粋な構えの格子戸の前には、豆絞りの手拭をねじり鉢巻にした町内の若い衆が二三人、必死の眼色を配ってがん張っている。
「御苦労、御苦労。用のない人間は、誰も家内へは入れなかったろうな?」
「へい。もう、お役人さまをお迎えするまでは、鼠一匹入れるこっちゃございません。ああ、これで一安心だ」
 若い衆の、現金な安堵の声を聞き流して、茂平次と七之助は、ずいと玄関に通った。六畳の茶の間には、長火鉢のかたわらに、仰向に虚空をつかんだ男の死骸がころがっていて、家主の市五郎と定番の門蔵が、怖ろしそうに部屋の隅に坐っている。
「ここはそのままか? なんにも手はつけなかったろうな?」
「へい。塵っぱ一つ、片づけません」
「殺された男は、金貸をしていたというが、さようか?」
「へい。左吉と申しまして、金貸を商売にしておりました」
「さようなれば、定めし、人の恨を受けているであろう。そのようなことで、何か心当りがないか。なまじっか隠し立てなぞをして、後で知れると迷惑が掛るかも知れないから、よく考えて、何事も包み隠さず申立ててくれい」
 市五郎と門蔵は、当惑した顔を見合せた。しかし、すぐ、市五郎は、ごくりと生唾を飲み込んで、
「ところが、旦那さま。左吉は、金貸はしていても、人の恨を受けるような、因業な真似はしていなかったようでございます。自分の暮し向は女中も雇わないくらい切り詰めていたようでございますが、商売の方は、金貸に似合わない鷹揚なんだと噂されていたくらいですから」
「ふうむ。それは厄介なことになった。金貸殺しの犯人だから、簡単に御用にできると思っていたのだが、少し面倒になって来たかな。花川戸の、じゃ、手伝ってもらって、一通り調べて見ようかの」
 言われるまでもなく、七之助の眼はもう、ここに入った瞬間から、めまぐるしく動きまわっていたのである。
 左吉の胸には、匕首がつかの根元まで刺さっていた。左吉はこの一突で、他愛なく息の根を止められたにちがいない。室内が取り散らかっているのは、誰か家捜しをした跡にちがいない。
 室の隅には鉄瓶がころがっている。長火鉢の中には、破り棄てた紙束が、なかば灰になっている。
「うむ。こりゃ、貸金の証文」
 茂平次は、その焼けのこりを猫板の上に継ぎ合せて、頓狂な声で唸った。
「おいおい、家主。これは矢張り、商売上の恨らしいぜ」
 その時、七之助は、死骸の肩に手を掛けて、俯伏に起しかけたが、同時に、思わず、あっ、と叫んだ。
「なんだ。どうした?」
「こんなものが、仏の下敷になっていました」
 拾い上げたのは、黒地に金模様の蒔絵の挿櫛(さしぐし)だった。

二、窓の顔

 この朝。左吉の死骸を最初に発見したのは、表通りの鶴源の料理番をしている幸太郎だった。鶴源と左吉の家は背中合せになっている。料理場のところの裏木戸を開けると、そこが左吉の家の台所口である。そこから露地を通って表通りに抜けることが出来る。夜の遅い商売だが、幸太郎には朝起のくせがあった。この朝も、彼は普通に起き木戸を開けたのである。すると、左吉の家の台所口が開けっ放しのままになっている。幸太郎は、二三度声をかけたが返事がないので、不安に駆られて上り込んで見るとこの始末だった。彼はびっくりして、跣足のまま、自身番に飛んで行ったのである。
 だが、浜中茂平次を喜ばせたのは、左吉は時々、鶴源に料理を食いに行っていた、ということを、幸太郎の口から聞いたことであった。茂平次は嬉しそうに顎を撫でながら、「ほう、そうか。随分しまり屋で、女中も使わないくらいだと聞いたが、時々にもしろ、高い料理を食いに行くといえば、仲居の中に、定めし気に入った女でもあったんだろうな?」
「さあ、そんなこともないようでしたが。左吉さんは女嫌いで通っていたんですからね。世の中で、女と酒くらい危いものは無いなんて、それが左吉さんの口癖でした」
「幸太郎」
 茂平次の、突然、打ってかわったきびしい口調だった。
「へ、へい」
「下手な隠し立てをすると容赦しないぞ。これに見覚えがあろう。誰の櫛だか教えてくれるだろうな」
「あっ、そ、それは――」
 蒔絵の櫛を差しつけられて、幸太郎は、のけぞるように唸声を立てた。
「見覚えがあるんだな。誰の櫛だ?」
「お、お雪さんの櫛です」
 その時、どこかで、かたりと、かすかな物音がした。七之助は、猫のような敏捷さで、台所口に飛んで行った。丁度、若い女の後姿が、鶴源の裏木戸の中に逃げ込むところだった。ぱたん、とはげしい音を立てて、裏木戸は女の後姿を遮った。七之助は台所口から、裸足のまま一足とびにその裏木戸に飛びついたが、もうその木戸は開かなかった。板の隙間からなまめいた色彩がちらちらと七之助の眼に映じて、あわてふためいた足音が、鶴源の調理場の入口に消えた。
「なんだ、どうした?」
 舌打をして引き返そうとすると、茂平次が台所口から顔を出している。
「一足違で逃げ込まれました。露地を忍んで来て、茶の間の窓からなかをうかがってたんです。あっしが気がつくと、窓から白い顔がすっと消えたんです」
「女か?」
「若い女でした」
「では、大体わかっておる。行こう。急がないと手遅れになるかも知れん」
 玄関の履物を台所口へ廻させて、茂平次と七之助は、幸太郎を先に立てて、鶴源の表から乗り込んで行った。

三、小判の謎

 お雪の父の伴五郎は、播州兵庫の米穀問屋北風屋庄右衛門の番頭であった。
 北風屋庄右衛門は、上方地方に集る出羽庄内の産米を一手に引受けて、さながらこの土地に於ける経済王国の観を成している。毎日、その店頭で、相場所のようなものを設けて、米穀売買の相場を定めていたが、これは、大阪に於ける米穀の相場をも動かす力があった。
 この米穀取引の仕切金は、毎日五千両を限って大阪の取引先から取り立て、船に積んで兵庫の店に持ち帰ることになっていたのだが、その日、その船を宰領していたのが、お雪の父の伴五郎であった。
 暮六ツ刻、船は北風屋の定船宿扇屋の河岸を離れて、沖へ漕ぎ出した。ところが、船が大阪と兵庫の真中頃まで差しかかったと思われる時刻、突如として、じつに突如として、大竜巻が巻き起ったのである。
 その大竜巻の唸りにまじって、人間の悲鳴が、陸の人々の肺腑を抉った。その時、海上にあった大小幾十隻の船々が、呆気なくその竜巻の犠牲となったのである。
 海はもう暗かった。狂奔した怒涛は、一刻あまりの後には、嘘のように、けろりとしてもとの凪に立ち返ったが、難破した船の人々は、殆んど波に呑まれてしまった。
 北風屋の船着場からは、凪を待って、数十隻の小舟が沖合はるかに漕ぎ出して行った。大阪から運搬の途中にあった五千両の金子は、丈夫な樫の箱に詰めて釘付にし、それには、万一難破の危変に際しても、金箱の所在が分るように浮標が取りつけてあるのだ。しかし、船の位置がはっきり分っているわけではない。しかも、広い海の上だ。暗い海の上だ。難破船の破片もいたるところの波の間に間に漂うている。漕ぎ出した捜索船も、明日の夜明を期して、一先ず空しく引き上げるよりほかはなかった。
 夜は明けた。
 しかし、どこへ消えたか、金箱の浮標は見当らなかった。あの、丈夫な浮標の綱が切れたのであろうか。
 不運な人々の溺死体は、次々に海岸に漂着した。北風屋の運搬船に乗っていた人々も半数はその死体を収容することが出来た。しかし、伴五郎の溺死体はついにあがらなかった。
 それから一年近くの歳月が流れた。
 北風屋の、大阪の取引先米彦の店で、或日、若い番頭の清兵衛が、突然、
「わあっ!」
 と、頓狂な声で叫んだ。
 店の者が一斉に清兵衛の方を振返った。清兵衛は、今し方、江戸の取引先から三度飛脚によって届けられた小判の数を読んでいたのだが、その中の一枚を顔の先にかざして口をもがもがやっているのである。
「なんだ、どうした?」
 一番番頭の助十が、帳場格子の中から、禿頭を光らせながら訊ねた。
「助十さん。あたしの勝だ。約束通り、二分頂きますぜ」
「え?」
「忘れっぽいね。この中の一枚でも一年以内に手許に戻って来るか来ないか、十枚の小判に目印をつけて、北風屋の仕切金の中に入れておいたじゃありませんか。あれから、丸一年にはまだ二十日ばかり残っている。ごらんなさい、この三角の印を。場所も形もてっきり間違いないじゃありませんか」
「ううむ、どれどれ」助十は、その小判を受け取って目印をしらべたが、「うむ、こりゃあ、間違いない。お前の勝だ」
「だが、一寸待ちなよ、助十さん」
「なんだ?」
「可怪しいですね。ほら、あの日の仕切金は、船が大竜巻に遭って、とうとう発見からなかったってじゃありませんか」
「そうだ。そうだったな。……ふうむ、清さん、可怪しなこともあればあるもんじゃないか」と、助十は、低くうなりながら考え込んだ。
 ふとした思いつきの悪戯だった。この中の一枚が一年以内にもう一度この店の帳場を通るか否か、助十と清兵衛は賭をして、目印をつけた十枚の小判を仕切金の中に混ぜておいたのである。しかし、それは、かの竜巻の夜に、空しく海底に沈んでしまった筈ではないか。
「もし、清さん。お前あれから、又、一人で悪戯をしたんじゃないだろうな?」
「そんなことはありませんよ」
 清兵衛はそう言いながら、再び残りの小判を調べていたが、
「あっ、又一枚混っていました。助十さん、あの日の金箱は、どうやら江戸へ流れ込んでいると見えますね」
 北風屋の番頭伴五郎はどこか江戸のあたりに生きているらしい、という噂が立ったのは、それから間もなくのことであった。あの竜巻の夜、どうかしたはずみで命拾いをして、五千両の金箱と一緒に潜伏したのであろうというのだった。
 その噂がまことしやかに伝られると、その頃持ち上っていたお雪の縁談が、突然お流れになってしまった。相手は、北風屋の手代の善次郎で、二人は三年も前からの相思の間柄だったのが、善次郎の親許から、にべもない挨拶の言葉一つで、無慈悲な破談を申込んで来たのである。
「でも私は、それは善次郎さんの本心ではあるまいと思いました。私の父が、そんなことをする人かどうか、善次郎さんにはよく分っている筈です。夢みたいな世間の噂を、善次郎さんだけは信用なさるまいと私は思いました。私は善次郎さんに会って本心を聞いて見たいと思いました。ところが、善次郎さんは、何かと逃げを張ってどうしても会っては下さいません。そのうちに、善次郎さんに新しい縁談がはじまっているという噂が耳に入りました。私は、まさかと思ったのですが、それは矢張りほんとうでした。
 北風さまの番頭さんの娘で、お仙さんという、私のお友達が、相手の花嫁さんだったのです。口惜しいやら情ないやら、私はもう狂気のようになってしまいました。
 その結婚式の晩に、私は死のうと思って家をとび出しました。しかし、それを母に気づかれて追い縋られたのです。母は私を叱りながらこう申すのでした。お前口惜しいとお思いなら、なんとかしてお父さんの無実を晴らしておくれ。死んだつもりになって精根を打ち込んだならば、たとい女の身であればとて目的が遂げられない筈はない、と申すのでございます」
 澱みがちのお雪の言葉が、そこで途切れた。顔を俯せたまま、じっと動かないのである。気がつくと、ふくよかな丸味を帯びた膝の上に、ぽたぽたとたれるしずく。
「うむ」
 嘆息に似た溜息を吐いて、浜中茂平次は、ともすれば泣けて来そうな人のよい顔を、庭木の見える窓に背けた。
 七之助も困った顔をして、かゆくもない頤の剃痕をぼりぼりと掻いた。

四、尾行

「お母さん、悪うございました。私、死んだつもりになって、きっと、お父さんの無実を晴らして見せます」
 その、健気なお雪の言葉を聞くと、母のおとくは、言葉もなく、涙の眼で、娘の顔を打ちまもっていたが、
「そうかい。よく決心してくれました。お父さんも、草葉の陰から、そのお前の言葉を聞いて、さぞお喜びだと思いますよ。……では、そのことについて、私が一寸気付いていることを、参考のために言っておきますがね。お前、桑野屋の大黒丸の船頭さんを御存じだったかしら?」
「大黒さん?」
 それが父の事件となんの関係があるのかしらといぶかりながら、お雪は言った。
 長浜町の廻船問屋桑野屋の大黒丸は、大阪と江戸の間を往復している菱垣船だが、沖船頭の権次郎は、時々北風屋にも出入をしていた。顔が大黒さまのように黒く、顔の輪郭にもどこか大黒さまに似ているところがあったので、ほんの二三度姿を見掛けたばかりなのだが、お雪はかなりはっきりした記憶を持っている。いつか、大黒丸の船長さんって大黒さまみたいね。と言って、お前口が悪いよ、と、笑いながら母のおとくにたしなめられたことを思い出すのだ。
 母もその時のことを思い出したのか、涙の顔にかすかな微笑を浮べて、
「ホホホ……。その大黒さまなんだがね。じつはこうなんですよ」
 あの大竜巻の夜、大黒丸も、伴五郎の船と前後して、長浜町の河岸から纜(ともづな)を解いていた。その当時、江戸大阪間の廻船は、積荷の競争から船足を競って、こんな時刻の出帆も珍らしいことではなかったのだ。さて、大黒丸も、沖合はるかに漕ぎ出した時、かの大竜巻をくらったのであるが、大黒丸は千二百石積の大船だったので、危く難を免れたらしい。再び長浜町へ引返すこともなく、そのまま航海を続けたところが、
「大黒丸が江戸へ着くと、船頭の権次郎は、積荷を下して下船したまま、どこかへ消えてしまったのです。そして、その後、大黒さんの姿を見掛けた者は誰一人ないといいます。ねえ、お前、なんだか可怪しいじゃありませんか」
 と、おとくは言った。
 お雪は、父の無実を晴す手掛りは権次郎をさがすことだと思った。彼女は、年端も行かない女の身空で江戸へ下った。しかし、どこにどう手掛を求めてよいか、まるで雲をつかむような捜しものだ。ふと思いついたのは、ともかくも大阪からの船着場に網を張って見ようということだった。
 お雪は、本所吉田町の木賃宿に仮寝の宿を定めて、毎日、ボロ三味線を抱きながら、あちらこちらの船着場を流し歩いた。
 空しい日が四月ばかりも続いた。すると、或日、お雪は、小網町の河岸に舫っている大黒丸の船体を見掛けたのである。夜の灯がともると、彼女は、船乗相手の小料理屋のある町筋を流した。一軒の店に呼び込まれて、二つ三つ小唄をうたった。呼び込んだのは、一見して、船乗と知れる潮焼のした男で、彼は、顔馴染みらしい土地の者を相手に何かしきりに大法螺を吹きまくっているところらしかった。
 お雪は、差された盃を、器用に受けながら、
「旦那さまは、大黒丸に乗っていらっしゃるのですか?」
「うむ。宇八ってけちな野郎だがね。だが、酒くれえなら遠慮なくやってくんねえ。こう、あにさん方も、どんどんやっちくんねえ。宇八は、こう見えたって、酒代ぐれえにゃ困らねえ。おう、千両箱がくっついてんのよ。宇八あ、金の実る木を持ってるんでえ。けちけちすんなってことよ。こう、姐さん、熱いところを、五六本、束にして持っち来てくんねえ」
 もう可なり酔っているらしく、宇八は、燗場に向って酔いどれ声を張上げた。
 お雪は、いい加減に酔っぱらいをあしらって店の外にのがれた。それとなく様子をうかがっていると、凡そ小半刻も経って、宇八が千鳥足を踏みしめながら暖簾の外に出て来た。宇八は、街角に息杖を休めている辻駕籠の中に、何か言ってよろめき込んだ。ぎっと威勢よく軋んで、梶棒はすぐに上った。お雪は不意打を喰ったように狼狽えたが、折よく第二の辻駕籠を見つけることが出来た。しかも、街の商売をしている同志で顔だけは見知っている駕籠屋だ。一ぺんくらいはからかわれたこともあるかも知れない。
「お願い。あの駕籠をつけて頂戴。酒代(さかて)ははずむからね」
「なんだ、お前か。お前が酔いどれ船乗の後を尾けるたあ、面白え。さあ、乗ったり、乗ったり」
 尾行は上手に続けられた。とある街角で宇八は駕籠をかえしたので、お雪も駕籠を下りた。宇八は暗い武家屋敷の通りを右に左に曲って行く。もうさっきのように乱れている足どりではなかった。やがて、町家の立並んでいる裏通りへ出た。すると、宇八はそこで、用心深く前後左右を見廻してから、とある、小粋な構えの格子戸の中へ消えて行った。

五、お雪拘引

「その家が、昨日誰かに殺された左吉さんの家だったのでございます。私は、何日も何日もこのあたりを立ちまわって様子を探った挙句、左吉さんこそ、大黒丸から消え失せた沖船頭の権次郎さんに違いないと見定めました。私の方では、大黒さんにはおおよその見覚えがあるのですが、向うでは私に対して何の記憶もない筈です。その安心が私にとって大きな味方でした。しかし、私の目的は生易しい問題ではありません。急いては事を仕損じる基だと思いましたので、私は桂庵に頼んで、近所の料理屋に仲居の口を探しました。そして、運よく住み込んだのが、このお店だったのでございます」
「うむ、そうか」と、茂平次が、あまり気の利かない合の手を挟んだ。
「左吉さんが金貨をなさっていること。でも、よその高利貸とちがって、利子も高くないし、因業な真似をなさらないので、世間の評判はあまり悪くないことなどを私は知ったのでございます。それだけに、借金の取りはぐれなどはかえって少いし、お金は殖える一方だから、ずい分貯め込んでいらっしゃるだろうという噂でした。女中さんもお使いなさらないのですし、偶にここのお店に料理を食べにお出でになってもお酒は召し上りません。私は、左吉さんの口から何か糸口を聞き出したいと思っているものですから、つとめて左吉さんに近づくようにして、それとなく船乗の話などを持ち掛けて見るのですが、とても用心深いのです。何しろお酒を召し上らないのですから、手段(てだて)の尽しようがございません」
「ふうむ」
「もうこの上は、左吉さんの留守の間に家捜しをして、何か糸口になるようなものを掴むより他はないと考えました。……すると、昨夜になって、丁度その機会が参りました。左吉さんはお店においでになって、係りの仲居さんはお粂さんです。私は番が空いて居りましたので、この時だと思いました。私はそっと料理場のわきを通って裏木戸を開けました。左吉さんの台所の鍵は、前から蠟型をとって合鍵をこしらえておきましたので、苦もなく家の中に忍び込むことが出来ました」
「ふうむ」と、茂平次が又唸った。
「それから、行燈に灯を入れて家捜しをはじめました。でも、何一つ手掛りになるようなものは見付かりません。時刻は容赦なく経って、小半刻も空しく過ぎましたでしょうか。突然、誰だか、表の格子を叩きはじめたのです。私はぎょっとしました。凍りついように、その場に立ち竦んでしまいました。表格子は、益々強く、叩かれたり揺ぶられたりします。でも、私が何とも答えませんので、とうとう、ちぇっ、という大きな舌打が、格子の外で聞えました。そして、がたがたとどぶ板を踏んで、裏口へまわるせまい露地へ入り込んだらしいのです。台所へまわられたらそれきりです。もうこうしては居られません。私は、行燈を吹き消すのも忘れて、いきなり台所口からとび出して、お店の裏木戸の中に飛び込んでしまいました。……お役人さま。私はすこしも嘘いつわりは申上げません。それから、左吉さんの家で何事が起ったのか、私は、何にも存じませんのでございます」
 言い終って、お雪は、おどおどと茂平次の顔色をうかがった。
「うむ、大体に正直に申上げたようだ。しかし、肝腎なところが、少々曖昧だな」
「……」
「とにかく、気の毒だが、一応番所まで行ってもらわずばなるまい」
「ええっ」と、血の気を失って、お雪はよろめいた。
「旦那。お連れになるんですかい?」と、七之助は言った。
「うむ。折角お前にも来てもらったんだが、この事件は意外に早く鳧(けり)がついたようだ。働き甲斐がなくって、お前には気の毒だったな」
「でも、当人は、左吉を手に掛けた覚えはないと言っているじゃありませんか」
「親の無実を晴らそうと、男にもできないような大望を起した女ではないか。ちっとは骨っぽいところがあるにきまっている」
 もう、お雪を、左吉殺しの犯人に決めてしまっている顔色だった。

六、船上の捕物

 お雪を連れて番所に引き上げる浜中茂平次に別れて、七之助は、真直に花川戸の家に帰った。何も知らずに一人で無聊をかこっていた音吉を促し立てて街にとび出すと、それから二刻あまりを、どこをどう駆けずり廻っていたのか、タ七ツ刻、伝馬町の調番所に浜中茂平次を訪ねた七之助の顔には、さすがに疲労の翳が宿っていた。
 茂平次は、むずかしい顔をして、一人で番茶を飲んでいた。
「どうしました。何か白状しましたか?」
「いいや、なかなか。意外に強情なので手を焼いている。どうせ生易しくは落ちそうにないから、吟味中入牢の手続きを執ることにして、あっちの室に休ませておいた」
「そうですか。では、その前に一寸そこまで付き合って頂けませんか。なに、大して手間は取らせません」
「なんだ、どうするんだ?」
「それは後で分りますから、あっしを信用して、何も言わずに付き合って下せえ」
「しょうがないな」
 茂平次はしぶしぶ腰を上げると、番所の者にお雪の張番を頼んで、七之助と一緒に表へ出た。行先は小網町河岸。見るとそこの河岸には、千二百石積の大黒丸が、威風あたりを払って横たわっている。
「ほう、大黒丸ではないか」
「そうです。あっしは、この船が、きっとどこかに入っていると思って探していたのです。ところが、矢張りそうでした」
 茂平次は、怪訝な顔つきをして七之助を振り返った。
「訊ねて見ましょう。大黒丸の水夫で、昨夜から帰らない男がいるかどうか」
 しかし、日野屋の店へ行って、大黒丸の積荷の指図をしている番頭に訊くと、大黒丸の乗組員はすっかり揃っているという。
「ふむ、そんなこともあるかも知れない。じゃあ、浜中の旦那、一応船の者共を調べさせてもらおうじゃありませんか」
 身分を明して、番頭に案内をさせて、三人は大黒丸に乗り込んで行った。番頭が、舳に立っていた船頭に何事かささやくと、
「おおい、みんな! 仕事を止めて集れえっ!」
 と、船頭は叫んだ。
 それぞれの持場についていた船乗たちが、何事かと不審顔をしながら集って来る。その間に、七之助の鋭い眼眸(まなざし)が、隼のように八方に働いていた。突如かっと彼の眼がかがやいたのだ。隠そうとしても隠し切れない、びっこをひいている男があるのだ。しかも、彼の眼は何事かを恐れているようだ。
「宇八っ!」
 七之助は破鐘(われがね)のような声で叫んだ。
 のけぞるような怖れと驚きを顔中に漲らして、男は逃腰をかかえた。
「どら、見せろ! どうしたんだ、そのびっこは!」
 さっと身を翻して、男は舷に走った。追いすがったが間に合わなかった。途端に男の姿が舷から躍って、川の真只中に水しぶきを上げたのである。だが、それを追いかけるように、七之助の手元から手繰り出された手練の捕縄。くるくるくると二巻、三巻、分銅の重みで男の猪首に巻きついた腕の冴えだった。

七、宇八の陳述

「こうなればもう仕方がございません。なにもかもざっくばらんに申上げます」
 年貢の収め時と度胸がついたか、番屋に引かれると、宇八はもう、悪びれたようすも見せなかった。
 ——かの大竜巻の夜に船頭の権次郎がうまいことをしたらしいと気がついたのは、その時の航海を終って大阪に戻ってからであった。その頃、大阪では、北風屋の金箱の行方不明が専らの評判だったからである。かの大竜巻の最中、大黒丸の水夫たちは、怒濤に呑まれない努力だけでも命懸けであった。その間に、海の底から手繰り上げた金箱を、権次郎が積荷の底に隠しても、誰もがそれに気がつかなかったとしても不思議はない筈だ。江戸に着いてからの権次郎の雲隠れが、もしもその金箱に関係ありとするならば、権次郎は、船が目的地に着く前に、どこかの沖合にでも、目印をつけて沈めておいたのに違いない。
 宇八はそう考えた。
 だから、大黒丸が江戸に入る度毎に、宇八は権次郎の行方を熱心に捜し歩いた。運のいい奴にはかなわないのである。宇八は、或日呆気なく、権次郎らしい後姿を見掛けたのだ。勿論、ひそかに後を届けた。家を突き止めて、突然に乗り込んで行くと、それは矢張り権次郎だった。
 名前も左吉と改めて、金貨なぞをしながら小ざっぱりした生活をしている。大阪には女房もあれば子供もいる。それさえ捨てて江戸の町に隠れ住んでいるくらいだから、よっぽど深いわけがあるに違いない。
「兄貴、俺だって、下手な騒ぎ立てをするような野暮な男じゃあねえ。ざっくばらんに打明けてくんな。北風屋の五千両は、お前の懐に転り込んでるんだろう」
「お前に嗅ぎつけられちゃ仕方がねえ。きれいに口止料を出してやらぁ」
 権次郎も話のわかりは早かった。彼は小判で百両、耳を揃えて宇八の前に並べたのである。
「もっとやりたいが、貸方に廻してしまって、手許にねえんだ。少いがこれで我慢をしてくんねぇ」
 たしかに、五千両の口止料に百両はやすい。しかし、なあに、金の実る木を持っているつもりで時々いたぶりに来ればいいんだ、と、宇八は諦めた。
 その百両はばくちで取られてしまったが、宇八は大して惜しいとも思わなかった。航海毎に、宇八は、十両二十両と左吉からせびり取った。大きな額を吹っかけて逐電でもされたら、元も子も無くなると思うからだった。
 ところが、ふとしたことから、宇八は品川の遊女に馴染んだ。女はいけない。女故に、多くの男たちは、身の破滅を招くのである。思えば、宇八がやっぱりそれであった。勤の辛さをなげく女の情に動かされて、彼はその女を苦界の外に救い出そうと約束したのだ。勿論金策のあては左吉だ。
 昨夜。宇八が訪ねて行った時、下谷長者町の左吉の家には行燈が灯っていたが、表には錠が下りていた。宇八は格子戸を叩いたり、手を掛けて揺ぶったりしたが、家の内からは何の返事もない。宇八はしびれを切らして、露地を通り抜けて裏口へ廻って見た。意外にも台所が開けっ放しになっていて、茶の間には行燈がひっそりと灯っている。見ると、室内は、誰か家捜しでもした後らしい狼藉さ。
「ちぇ、無用心な男だな」
 宇八は舌打をしながらごろりと横になった。一眠りして酔をさましながら左吉の帰宅を待つ積りだった。
 揺り起されて眼を覚すと、左吉が恐ろしい眼付をして枕元に坐っていた。
「おい。お前、家捜をしたな?」
「知らん。俺が来た時はもうこの通りの有様だった。台所口が開いていたんだぜ」
 左吉はもう黙っていたが、宇八の弁解は信じない顔色だった。金の話を持ち出すと、いつになく突慳貪に、
「いくら要る?」と、言った。
「百両」
「百両? つけ上るな。お前にはもう五百両から取られているぞ。もう、一文も出せん。さっさと帰って貰おう」
 左吉のこの意外な態度に、宇八も思わずかっとなった。
「おいおい、そんな顎を叩いていいのか。憚りながら、俺を怒らしちゃ、お前のためになるまいぜ。おとなしく、耳を揃えて、小判で百両並べねえ」
「いやだ」
「なに」
 脅しのためであった。宇八は、懐に呑んでいた匕首の鞘を払ったのである。
「わあっ! こ、この野郎!」
 眼と口とが一緒に叫んで、瞬間、左吉の手には鉄瓶のつるが高々と振り上げられていた。
「迂奴(うぬ)!」
 全く、無我夢中の一瞬だった。鉄瓶は肩を掠めて宇八の膝を擦ったが、同時に、体ごとのしかかって行った宇八の短刀が、ぐざっと左吉の胸に突き刺っていた。
 ——物に憑かれたように、ここまで一気にしゃべりまくって、さすがに疲労を覚えたのか、宇八はげんなりと溜息を洩らした。
「貸金の証文を焼いたのはお前だな。お上の注意を商売の関係の方に向けるつもりだったんだろう。それが貸金の証文と分るように半分焼残しておくなんて、いやに細工が細けえじゃねえか」
 宇八はきまり悪そうな微笑を浮べた。
「そのくれえ落ちついてりゃあ、勿論、家捜しもしたろう。小判の隠匿場(かくしば)は発見かったか?」
「それが発見かるくらいなら、二度と船になぞ戻って来ませんや。今頃どっかへずらかって、小判の山に埋ってぬくぬくと温まってまさ」
「違いない」
 茂平次と七之助は、思わず顔を見せて笑い声を立てた。

八、相寄る魂

 翌日。
 お雪は菓子折を下げて、花川戸の家を訪ねて行った。
「浜中の旦那さまのお家へ参りましたら、礼ならば花川戸の親分さんに申上げろ、と言われたんですの」
 お雪の白い襟足が紅に染っていた。親の無実を晴らそうと男優りの大望を抱いていた娘のどこにこんなしおらしい風情がひそんでいたのかと、まだ恋知らぬ七之助の胸には、怪しい波が騒いだ。
「お礼などとは痛み入ります。なあに、あっしにゃ、最初から、左吉殺しはお前さんのしわざではないと分ってたんです。だってそうじゃありませんか。あの匕首は切尖が背中へ抜けていたんですぜ。こりゃよっぽど力のある男でなくっちゃできないですからね」
 お雪は、取縋るような眼つきで、頼母しげに七之助の顔を見上げた。
「でもよかったですね。お父さんも、さぞ、草葉の陰から喜んでいなさるでしょう」
「有難うございます。それもみんな親分さんのお蔭です。浜中の旦那さまの計らいで、父の無実を晴らせる書付を、頂いて参りました」
「ではもうすぐ、上方へお帰りになるんですね?」
「はい。あの、母が待ち兼ねていると思いますので——」
 まるで申合せたように、二人の男女が、同時に深い溜息を洩らした。
「ち、じれってえな」
 台所では、子分の音吉が、七輪の火をおこしながら、七之助の心臓の弱さを、しきりに歯がゆがっている。

「大黑丸秘譚」あらすじ

下谷長者町で金貸しの左吉が殺害される。現場には蒔絵の櫛が残されており、隣家の料理屋「鶴源」の仲居・お雪のものと判明。お雪は、父の無実を晴らすために江戸へ来たと語る。彼女の父・伴五郎は、かつて大竜巻で五千両の金と共に海に消え、金を横領したとの汚名を着せられていた。

お雪は、父の失踪と同時に姿を消した廻船問屋「大黒丸」の船頭・権次郎が怪しいと睨み、江戸で捜索。ついに権次郎が左吉と名を変えて暮らしていることを突き止める。事件の夜、お雪は証拠を探すため左吉の家に忍び込んだが、何者かの気配に驚き逃げ出したと証言する。同心の浜中茂平次はお雪を犯人と疑うが、七之助は彼女の話に真実を感じ取る。

七之助は、お雪の話から大黒丸の船員・宇八に目をつける。船に乗り込み宇八を追い詰めると、彼は観念して全てを白状した。宇八は、権次郎(左吉)が竜巻に乗じて五千両をくすねたことを知り、それをネタに金を強請り続けていた。事件の夜も金を要求したが断られ、逆上して左吉を殺害してしまったのだった。

宇八の自白により、お雪の疑いは晴れ、同時に父・伴五郎の無実も証明された。七之助の働きに感謝するお雪。二人の間には、ほのかな想いが通い合うのだった。

主な登場人物

花川戸の七之助(はなかわどのしちのすけ)

本作の主人公。金貸し殺しの裏に隠された、一年越しの海の謎を解き明かす。

お雪(おゆき)

料理屋「鶴源」の仲居。金銀横領の濡れ衣を着せられた父の無実を晴らすため、江戸で健気に奔走する。

左吉(さきち)

下谷で殺害された金貸し。その正体は、一年前に大竜巻に乗じて五千両と共に姿を消した大黒丸の船頭・権次郎。

宇八(うはち)

大黒丸の船員。左吉の秘密をネタに金を強請っていたが、口論の末に彼を殺害してしまう。

伴五郎(ばんごろう)

お雪の父。米穀問屋の番頭だったが、大竜巻で五千両と共に行方不明となり、横領の疑いをかけられる。

浜中茂平次(はまなか もへいじ)

八丁堀の同心。当初はお雪を犯人と決めつけるが、七之助の助けで真犯人にたどり着く。

Q&Aコーナー

Q. なぜお雪は、金貸しの左吉が父の失踪に関係していると考えたのですか?

A. 彼女は母から、父が失踪した大竜巻の夜、同じく海にいた廻船「大黒丸」の船頭・権次郎が、江戸に着いた後に行方をくらましたという話を聞いていました。父の無実を信じる彼女は、権次郎が何かを知っていると睨み、江戸で捜索。そして、偶然再会した大黒丸の船員・宇八を尾行した結果、彼が向かった先が左吉の家だったため、左吉こそが権次郎だと確信したのです。

Q. 結局、お雪の父・伴五郎が横領したとされた五千両はどうなったのですか?

A. 大竜巻の混乱に乗じて、船頭の権次郎(後の左吉)が盗み出していました。彼は海に沈んだと見せかけて金箱を回収し、江戸で金貸しをしながら暮らしていました。事件の犯人である宇八がすべてを自白したことにより、伴五郎の無実が証明されました。

Q. 七之助は、なぜすぐにお雪の無実を見抜けたのですか?

A. 現場に残された状況証拠からです。被害者の左吉は、匕首で胸を深く刺されており、その傷は背中にまで達していました。七之助は、か弱い女性であるお雪に、それほど強く人を刺す腕力があるとは考えられないと判断しました。そのため、茂平次がお雪を犯人と決めつける中、冷静に真犯人を探し始めました。