生きている小町娘
著:納言恭平
「七之助捕物帳」は、捕物帳の名手、納言恭平(なごん きょうへい)による傑作時代小説シリーズです。 江戸は花川戸の御用聞(ごようきき)・七之助が、子分の音吉と共に、江戸八百八町で巻き起こる難事件に挑みます。
鮮やかな推理と、江戸の町に生きる人々の人情が織りなす物語は、今なお多くの読者を魅了し続けています。 このページでは、シリーズの一編「生きている小町娘」をお届けします。
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御唄けいこ所 常磐津(ときわづ)文字花……赤い提灯のぶら下っている細格子の前で、額に瘤をこしらえた物騒な顔の男が、
「ちぇ、しようがねぇな」
唇をゆがめて、いまいましそうに呟いた。——この真昼間。格子の奥からは、粋な三下りの音締に乗って、若い男の極道声が洩れている。
どこがよいかという其人に
見せてやりたい、蓼(たで)の虫
てもそうかいな、そうかいな
「てもそうかいな、そうかいな、か。はい、真っ平御免なせえまし」
がらがらっと、やけに格子戸を引開けると、はあい、と、艶めいた返事を気軽に送って、取次に現われたのは内弟子の文字松。
「あら、音吉兄さん、いらっしゃいまし。まあ、どうなさいまして? 大きな瘤じゃありませんか。ホホホホ……」
「いやんなっちまうな。笑いごとじゃあござんせんぜ。親分にそう取次いでおくんなせえ。乾児の音吉が、おでこに瘤をこしれえて、お迎えに参りやしたと」
文字松が肩で笑いこけながら奥に消えると、三味の音の極道声がびたっと止んで、男と女の笑い声が縺れ合った。
「音吉さん、お上んなさいましよ」
「上れ、音吉」
まだ、笑っている声だ。広い家ではないので、襖の蔭の声だが、玄関まで筒抜けだった。音吉は、指に唾をつけて、額の瘤になすりながら雪駄を脱いだ。
七之助は、小唄のけいこ三味線を膝のわきにずらせて、
「成程。賑やかなおでこだな。どこでころんだんだ」
「ちえ。按摩じゃあるめえし」
「じゃ、喧嘩でもしたのか。弱えくせに、口先ばかり達者だからよ」
「いやんなっちゃうな。それ、その通り、親分の方が、よっぽど口が悪いじゃござんせんか。罹りながら名誉の負傷ですぜ。親分が極道声ばかり張り上げて、十手の錆を磨きなさらねえから、あっしが孤軍奮闘せにやならねえ。親分は、一のこぶんの音吉が、おでこに瘤を打出しても、可哀そうたあ思いなさらねえんですかい?」
「あーあ。折角けいこに油が乗っているところを、とんだ重盛が飛び込んで来やがった。音吉、用はなんだ?」
「ちょっと表まで……」
「そうか」
茶を飲んで行け——という文字花の愛想を背中に、格子を開けて露地を出て行く七之助と音吉。
「親分、これに、見覚えがござんしょう」
ふところから袖伝いに、七之助の手に渡って来た、ずっしりと重味のある紙包。それを臍のあたりで、そっと開いて見るなり、
「あっ! お前、こ、こ、これを、どこで手に入れたんだ? こりゃあ、吉野屋の小町娘の釵じゃねえか」
その平打の銀釵には、金で鴛鴦の象眼が細工してあった。今戸河岸の船宿、吉野屋の娘お絹は、馬道の常磐津師匠文字花のけいこ所に通っている時、いつもこの銀釵を挿していて、
「私、どういうわけか、この釵が好きで好きでしようがないの」
そう言って、兄弟子の七之助にも見せてくれたこともある。
「だが、はてな? あの釵なら、仏と一緒に棺に納めて、妙心寺の墓地に葬むってある筈だが。まさか、墓を発いた奴があるんじゃあるめえな。いや、待て、こりゃあ、ありそうなことだぞ」
その平打の銀釵ばかりではなく、吉野屋善吉は、娘のお絹が生前愛着を持っていた衣裳やその他の装身具を身につけさせて、野辺に送っている。その噂を聞き出したどこかの悪党が、大それた考えを起したとしても不思議はないわけ。
「矢張り、親分もそう考えなさるんですかい?」
「そりゃあ、人間、誰しも一応、思案はそこに落ちるだろう。だが、この釵を、お前どこでどう手に入れたんだ? おでこの瘤はどうしたんだ?」
七之助は早々と昼遊に出掛けるし、外は花曇りの罪な陽気だし、音吉も家の中にじっとしていることが出来なかった。
桜の蕾が微笑いかけたという、向島土堤の景気でも見て来ようと、花川戸河岸の家を出掛けたのが午の刻下り。
ぼんやりと懐手をしながら、今戸河岸に差掛ると、吉野屋の表通りを、これ見よがしに十手をひけらかしながら、往ったり来たりしている男がある。その様子が、いかにも、御用の邪魔を警戒して、通りを警戒しているように見えるのだ。
「いけねえ」
音吉は、一足飛に、天水桶の蔭に身を隠して、そこから、そっとくびを伸ばして様子を伺うと、なんのこった、その野郎は、以前には、音吉と一つ釜の飯を食っていた久米三ではないか。七之助の父親の又五郎が死んで、花川戸の家が落目になると、真先に飛び出して、又五郎とは宿怨の間柄にあって、神田雉子町の御用聞ミミズクの藤兵衛の配下に寝返りを打った野郎だ。
「さては、藤兵衛の奴、なにか嗅ぎ出しやがったな。花川戸から眼と鼻の間みてえなところで、こちとらの鼻をあかそうなんて、舐めた真似をしやがる」
とても、このまま指をくわえて引込んではいられない。地の理には地廻りのドラ猫よりも通じている音吉、路地を抜けて吉野屋の裏口へ廻った。
台所から、しきりの戸口に屁っぴり腰をして、帳場の声に地獄耳をそばだてていた女中のお霜が、音吉のあし音に振返った。
「神田の藤兵衛親分かえ?」
低声で訊ねると、お霜は眼顔で頷ずきながら近づいて来た。
「何の用だえ?」
「そ、それが大変なのよ。お絹さまの墓を掘り返した奴があるらしんですって」
「へっ、そいつあ又、酔狂な奴があったもんじゃねえか。なんのために、そんな莫迦な真似をしやがったんだろう?」
「だって、うちの旦那、金目の物を沢山、仏さまの身に着けさせて、お葬いをお出しなされたんですもの、泥棒でも聞きつけたら放っておきませんよ」
「ふうむ、成る程。そこでここの旦那は、墓場泥棒の詮議を、藤兵衛親分にお頼みなすったてえわけだな。くそ面白くもねえ。花川戸河岸には、おいらの親分がいなさるんだぜ」
「いいえ。うちの旦那は、今の先までなんにも御存じなかったんです。神田の親分さんが、乾児衆を連れていらしって、いきなり、平打の銀釵を出して、これに覚えがあるだろうって。その時旦那のびっくりなすった顔ったらありませんでしたわ」
「それも、仏と一緒に埋めたものだったんだな。おや?」
表では、藤兵衛が、なにやら威張りくさった声を吐き散らしながら、引上げて行く様子。
「おっとっとっと。じゃ、お霜さん、後で又智恵を借りに来るかも知れねえぜ」
音吉は、元来た路を——露地を通って、横っ飛に表通りに飛出すと、三人の乾児をうしろに従え、肩をそびやかしながら、意気揚々と引上げて行く藤兵衛の前に立塞がった。
「神田の親分! いくらうちの親分がおとなしいったって、あんまり舐めた真似は、ちと慎みなすったらどうですかい?」
「な、な、なんだと? そりゃあ、一人前の御用聞のいうこった」
「やいやいやいやい。この野郎、身の程を知らねえ野郎だ。相手を誰だと思ってるんだ。神田維子町の藤兵衛親分さまだぞ」
虎の威を籍りて、角張った顔を振りながらしゃしゃり出た久米三。
いきなり、ぴしっと、平手が音吉の横顔に音を立てた。
「この恩知らず奴!」
音吉も拳を固めてなぐり返したが、
「おや、この命知らず奴!」
「やっちまえ!」
仲間の乾児共が助け舟の腕をまくったからたまらない。口先だけは勇ましいが、腕っ節には大して自信のない音吉。たちまち袋叩きの憂き目に会わされたのは止むを得なかった。音吉は瘤の由来を語ってから、得意そうに、
「親分。あっしゃ、口惜しくって口惜しくってならねえから、野郎共の勝手にされているうちに、ちょいとあっしの奥の手を小出しにしてこいつを、素早いとこ、藤兵衛の懐から搔さらってやったんでさ」
「音吉。俺あ、眠くなったから家に帰って一眠りすらあ。お前、御苦労だが、その銀釵の出所を洗って見てくんねえ」
しばらくは腕組をしたまま、黙って歩いていた七之助が、重い口を開いた。
「えっ! じゃ、親分。このネタをものにしようと言いなさるんですかい?」
「藤兵衛づれに、鼻の頭をこすられて、指をくわえて引込んでもいられめえ」
「しめたっ! そう来なくっちゃいけねえ。そうと聞きゃあ、あっしゃ、地獄まででも詮議の旅にめえりやすぜ。……出所あ、どうせ七の字でがしょうねえ」
「そうだろう。神田浅草1円、虱つぶしに走り廻って見てくれ」
「親分、合点だ!」
素早く尻端折った音吉が、風を起して駈け出しながらの声であった。
「あんなに喜んでやがる。俺もそろそろおみこしを上げずばなるめぇ」
七之助は、音吉の走り出した後姿を見送りながら、ほろりと呟いた。
七之助がどうやら御用を勤める気になったと知って、音吉が有頂天のよろこびを爆発させたのも無理はなかった。
七之助は、江戸中の御用聞の中でも、一といって二と下らない捕物名人の名を謳われた又五郎の株を譲られながら、まだ一度も、御用らしい御用を勤めたことがなかった。天分に恵まれていないというわけでもない。又五郎でさえ、
「彼奴が性根を入れかえたら、立派に俺の後が継げる奴だ」
と折紙をつけていた程である。才覚はあるし、柔術は免許皆伝の腕前だし、ことに捕り縄捌きの手のうちにいたっては、技神に入るの概があった。
が、そういう七之助も、道楽の味が身に染みては詮もなかった。父の又五郎が死んで責任のある体になっても、一向に改まらない御乱行に愛想を尽かして、三十人から集っていた乾児衆も、二人去り三人去り、今では、巾着切り上りの音吉がたった一人、江戸っ子の意地と義理とを立て通している。
「そうだ。親父ゆずりの乾児共あ、みんな散らかってしまったけれど、なあに、俺にや、音吉てえ可愛いい奴が一人ありゃあ沢山だて。やろう。褌をしめ直そう。道楽も悪かあねえが、可愛いい乾児の喜ぶ顔を見るのも、満更じゃねえ」
一人呟きながら、男世帯の縁側に、昼寝の枕を持出す七之助だ。
ざっと一眠りした七之助が、井戸端で、眼覚しの顔を洗っていると、
「親分。帰って参りやしたぜ」
音吉が口から先に飛び込んで来た。鬼の首でも取ったような顔だ。
「もう分ったのか?」
「分りやした。へん、どんなもんですい。音吉さんの仕事っぷりは、ざっとまあ、こんなもんでさ」
虱潰しに質屋を洗って、五軒目に阿部川町の尾張屋の暖簾をくぐると、そこが銀釵の出所だった。
「質物(しちもつ)を持って来たのは、谷中の妙心寺の権作とかいう寺男で、帳面を調べて見ると、日付が十一月九日になっていやすぜ」
「それじゃ、お絹さんの葬式から幾日も経っちゃいねえな。それに、谷中の妙心寺てえなあ、たしか吉野屋の菩提寺だ。うむそうか、成程な」
「だが、親分。もっとびっくりなさることがありやすぜ」
「なんだ?」
「尾張屋から、この銀釵の質流れを手に入れたなあ、誰だと思いなさる? 驚かすじゃありませんか、馬道の師匠ですぜ」
「へえ、そうかね」と、くびをひねって「じゃあ、藤兵衛親分に、これを証拠に御用の材料を教えてやったなあ、馬道の師匠てえわけだな」
「そうなんでさ。けからんじゃござんせんか。毎日のように手前のけいこ所に入りびたってなさる親分の鼻をあかして、相手もあろうに、藤兵衛づれに花を持たせようなんて。あっしゃあ、口惜しくって口惜しくって、泪が溢れやすぜ」
「なあに、相手は女だ。気にしたってはじまらねえ。さあ、音吉、出掛けようぜ。仕事だ、仕事だ」
「有難え。行先はどこでげす?」
「谷中の妙心寺よ」
七之助と乾児の音吉が、若さと健脚にものを言わせて、妙心寺の門前に駈けつけた時には、すでに、墓地の方角に当って人のざわめきが聞えていた。そのざわめきは次第にこちらに近づいて来る。
やがて、耳門(くぐり)がばっと開くと、久米三の稀代の団子鼻を露払いにして、相変らず肩の肉を盛り上げていきみ返った藤兵衛。その後から寺男の縄尻を取った乾児が続いて、ぞろぞろと門の外に雪崩れ出て来る。
「雉子町の親分! 相変らず、早えとこ片付けなさるじゃござんせんか」
七之助が声を掛けた。藤兵衛はぎょっとして振返ったが、すぐに、さげすむように口を歪めて、
「なんだ、花川戸の若親分じゃねえか。いよいよ御用を勤める気になったと見えるな。しかし、御用始めに、——藤兵衛に楯を突くたあ、身の程知らずというもんだぜ」
「なに、そんな大それた気は、毛頭ござんせん」
「ねぇことはあるめえ。それ、そこに小さくなっている指先の曲った野郎を使って、人の仕事を横取りしようと企んだなあ、どこの若造なんだえ?」
「おい、返せ! さっき、手前がすった銀釵を返してしまえ!」
久米三が、音吉におどり掛った時、その銀釵は七之助の懐から、
「雉子町の親分、音吉の悪戯はこれでげしょう。さっ、お返し申しやすぜ」
藤兵衛は、夜でも物の形がはっきりと見えるという三白眼で、ぐっと七之助の顔を睨みつけながら、黙ってそれをひったくると、
「花川戸の、御用始めに気の毒だったな。犯人(ほし)あこうして藤兵衛さまが貰って行くから、後でゆっくり地団駄でも踏みな。おい、野郎共、行こうぜ」
乾児共を促し立てると、高手小手に縛り上げた寺男の縄尻取って、意気揚々と、黄昏の町を引き上げて行く。
その後姿を見送ってから、七之助は音吉を連れて、寺の門内に忍び込んだ。墓地に入って、墓石の間を縫って行くと、かすかな念仏の声が、どこからか聞えて来る。声をたよりに近づいて行くと、一人の男が、新しく土を掘返した墓の前に、うずくまっていた。
「吉野屋さんでげすかえ?」
振り返った男は吉野屋善吉。
「あ、花川戸の親分!」
「どうしなすった? 矢張り、お絹さんの墓には、なにか変ったことが起ってたと見えやすね」
「そ、それがね、親分。ほ、ほ、仏まで、き、き、きれいに消えてしまってるんです。恐ろしい、恐ろしい」
善吉は数珠を採んで、又もや、狂ったように念仏を称えはじめた。
翌日。
約束の暮六つ頃、音吉が花川戸の家に帰って行くと、七之助が自分で夕飯の支度をして待っていた。
「済まねえなあ、親分。もう帰っていなすったんですかい?」
「ああ、俺の方は案外用事が早く済んだ。さっ、大急ぎでかっ込んでくれ。今夜、これから、お前にも存分働らいて貰わにゃならねえ」
「へえ、じゃ、親分は、墓場荒しの相棒を、早えとこ嗅ぎつけなすったね。木菟(みみずく)の大将は、寺男の権作がどうしても泥を吐かねえんで、汗みずくになって手古ずってますぜ」
音吉は、朝から、妙心寺の寺男権作の詮議の模様を探りに行っていたのだ。
「権作あ、なんと言ってるんだ?」
「お絹さんの葬式の後、二日目か三日目の朝、地に落ちていたのを拾ったんだと申し立てていやすぜ。ところが、木兎の大将も凄腕でげすな。たった一晩のうちに、権作の素性をすっかり調べ上げてるんですから、そんな甘え申開きに耳をかす筈あござんせんやね」
「へえ。どんな素性だ?」
「若え頃は、旗本の仲間部屋をごろつき廻って道楽の味を舐めつくしているし、妙心寺の寺男に納まってからも、地廻りの無頼漢共に博奕の宿を貸していたらしいんでさ。でげすから自分で墓場荒しの仲間に加わっていなければ、その手引をしたに違えねえ、というのが、藤兵衛親分の考えなんで。親分の見当も、矢張りそこらへんでがしょう」
「そこらへんかも知れねえな」
七之助の顔には謎のような微笑が浮んで、三杯目の箸をおくと、もう立上っていた。
やがて、花川戸河岸の露地を出て、上野の方角に向って足を急がせる二人。小半刻の後には、牛込岩戸町の宵闇の中に立っていた。二人の眼の前には相当の構えの門がぴったりと閉っていて、御用提灯のあかりに照された標札には、円谷貞山(まるたにていざん)の四字。まだ年齢は若いが、江戸でも一流の人形師として認められている人物の名前だ。
耳門(くぐり)を押すと音もなくあいた。二人は提灯をかざしてそこから忍び込んだが、家のどこにもあかりのさしている部屋がない。
「どうやら留守らしいて。そこらで様子を聞いて見よう」
忍び込んだばかりの耳門をすごすごと後戻りすると、露地の出口の角の魚屋で、亭主が盤台を洗っていた。
「ちょっとお訊ねします。あっしらは、円谷さまに用事があって、品川から訪ねて来た者なんですが、お留守らしゅうござんすね?」
「さあ。番をしているわけではねえから、よくは知らないが、この二三日、雨戸が開かねえようですぜ」
「ほかに、御家族はあんなさらないんでげしょうか?」
「どういうわけか大きな屋敷に独住居よ。もっとも、もとは、お弟子さんだの、下男衆だの、賑やかなお住居だったんだがね」
「とんだお邪魔さまで。どうも有難うござんした」
魚屋の店の前を離れると、
「かまわねえから、踏み込んで見よう。お前、一またぎ、自身番まで断って来てくれ」
「合点でげす」
あたりに一煽り風を起すと、音吉の身軽な後姿は、もう、行手の闇に掻き消えていた。間もなく、家主の孫右衛門を同道して立戻って来た音吉。
「御用の筋で家捜しをさせて貰いやすぜ」
孫右衛門に断って、七之助は、先に立って耳門を潜り、さっさと庭を横切って行く。立ちかかりの雨戸の下に、十手の先を突っ込んでぐいとこじると、雨戸は難なく外れてしまった。
三人は、雨戸をこじ開けた縁側から、次々と家の中に吸い込まれた。室という室は、押入の隅々までも引掻きまわしたが、階下にはなんの異常も発見されなかった。どの室もどの室も、夥しい埃と黴の匂いばかり。恐らく貞山は、独住居をするようになってから、階下の室を使わなかったのであろう。
(異変があればきっと二階だ)
七之助は、音吉の提灯を横奪りして、足早に二階に上って行く。いきなり、とっつきの唐紙を押し開くと、そこが、現在使っているらしい八畳の居間。しかし、予期した異変はどこにも起っていないのだ。
音吉と孫右衛門が、七之助の後を追って二階に上って来た。
「ほう、贅沢な道具が揃ってやがる。古道具屋に叩き売っても、大した金目でがしょうね」
音吉の感嘆詞を背に聞き流して、次の間に移って行く七之助。そこは矢張り八畳ばかりの、板張の仕事場だ。種々雑多な大道具小道具がごたごたと室中を埋めて、まるで芝居小屋の楽屋裏のよう。
だが、いくら調べて見ても、ただそれだけのことで、ここにもなんの異変もない。
「おや。こいつあ少し変だぞ」
七之助は頭をひねった。それは、この室に予期した異変の発見されない訝しみではなかった。仕事場の、居間との反対の側は壁になっていて、二階の室数は明らかに二室きりなのだが、家の外からの目測を思い出すと、なんだかこれだけでは室数が足りないような気がする。
「二階は二部屋ですか?」
後を追ってきた孫右衛門に、七之助は訊ねてみた。
「もう一つ、六畳の室が、この奥に続いてますよ。……おやっ、こりゃ可怪しい」
孫右衛門は狐につままれたような顔をして、突当りの壁を睨んだ。
「ははあ、そうか」
その時、七之助が眼をつけたのは、壁を背にした人形の陳列棚。その前の床に、物を引きずったような疵痕が一面に残っているのだ。七之助は棚の端に手をかけて、手前の方にずらして見た。すると、果して棚のうしろに小さなくぐり戸が隠されている。
「御覧なせえ。ここにこんなからくりがありやすぜ」
七之助は、そろそろと潜戸を押して見た。十分に押し開けたところで、提灯を先に、さっと隣室に躍り込んだ。
と、生温い空気がむっと鼻を撲って、同時に、七之助の眼を奪った異様な情景。その室の中に、眼の覚めるような盛装の、一人の美女が、ふくよかな胸もあらわに、しどけなく裾を乱して、仰向に倒れているのだ。しかも、その胸には、一ふりの短刀が無慚に突き刺さっている。
「あっ!」と、思わず洩れる驚きの叫び。
「親分、どうかなすったんですかい?」
「おお。早く来ねえか。いい物を見せてやるぜ」
「今、参りやす」
屁っぴり腰をして、恐々潜戸から顔を突き出した音吉の手くびを、七之助はぐいとひっつかんだ。
「あれだ!」
「わあっ? ひ、人殺し……」
「あわてるな。人形じゃあねえか」
「なあんだ、驚かしやがらあ。でも、なんだって、人形の胸に、短刀なんか突き刺しゃあがったんでげしょうねぇ。……あっ、こ、こりゃあ、吉野屋のお絹坊じゃござんせんか」
「そうだよ。……音吉」
「へえ」
「もう一つお前に見せる物がある。眼を皿にしてよく拝みねえ。お絹坊は人形だが、こっちの方は本物だぜ」
突きつけた提灯の光の中に、一人の男がだらんとぶら下っていた。
「わあっ!」
異口同音の悲鳴を挙げた音吉と孫右衛門。孫右衛門がへたへたとその場に腰を抜かすと、音吉は音吉で、七之助の腰のあたりに必死とかじりつく。
投げ出された自身番の提灯に、倒れた蝋燭の灯がめらめらと燃え移った。
欄間にぶら下っている男は、孫右衛門の首実検の結果、円谷貞山の変り果てた姿とわかった。
「こう、音吉。俺たちゃあ、これから柳橋に飛ぶんだぜ」
「へえ。あっちにも、何事か起ってるんですかい?」
「君鶴姐さんのくびに縄をつけて、ここへしょっびいて来にゃならねえ」
「えっ、君鶴さんを。そ、そりゃあ又、どういうわけでげすかい?」
それには答えず、さっさと二階を下りて行く七之助。音吉と孫右衛門も、まだ、ぶるぶるふるえる足を踏みしめながら、後を追いすがって階下へ。
「こらあ!」
突然、七之助がどら声を張り上げたのは、さっきはずした雨戸のところから、庭先へ飛び出しかけた瞬間のことだ。——声と同時に、七之助の姿は、もう庭木の間を縫って、矢のようにすっ飛んでいる。一個の、怪しの人影を追跡しているのだ。
耳門の開戸が、七之助の顔をはたき返すように、激しい音を立てた。
「なにくそっ!」
続いて、耳門を飛び出す七之助。同時に、七之助の上体がさっと沈んだかと思うと、手許から繰出されたひとすじの捕縄が、まるで生あるもののように、するすると怪人物の後姿に伸びたのだ。
ぐっと手応えがあって、びんと張り切った縄の彼方で、あっ、という低い叫び。ぐい、と手繰ると、一たまりもなく、怪人物は仰向ざまに引き倒された。
すかさず飛びかかって押え込むと、何と相手は女だった。
「親分、捕りやしたね」
一足後れに駈けつけた、音吉の御用提灯にさらされたのは、お座敷着姿の、柳橋の君鶴だった。七之助や音吉とは、せんこく顔馴染の間柄だ。
「ちょうどよい所へ来てくんなすった。じつあ、これからお前さんを迎えに行こうとしているところだったんだ」
しかし、君鶴は、玉虫色の唇を噛み締めたまま身動きもしない。お座敷着の裾を泥だらけにして、不貞腐ったように、その場に坐り込んでいる。
「お前、貞山をなぜ手に掛けた?」
「ええっ?」
誘いの効目は覿面だった。
「手に掛けておいて、自殺に見せかけようなんて太え女だ。大それた罪を犯した後ってもなあ、誰しも、後の様子が気になって、よく覗きに来たりするもんだ」
「違います。違います。私、師匠を殺した覚えはございません」
狂えるもののように、君鶴はよろよろと立上ったが、すぐ又倒れ込むように、七之助の肩幅の広い胸にとりすがって、
「親分さん。師匠は、師匠は、ほんとに死になすったのでござんすかえ?」
「見せて上げよう」
女を連れて七之助は再び二階に上って行った。貞山の浅間しい姿を一目見るなり、君鶴は、わっとその場に泣き伏して、
「親分さん。師匠はやっぱり、私が手にかけて殺したも同じです」
泣きながら、君鶴が打明けた事件のいきさつというのは、
円谷貞山は、君鶴にとって、いとしい男だった。男女(ふたり)は、吉野屋の奥座敷に落合っては恋のうま酒に酔い痴れるのであった。
ところが、貞山は、いつの間にか、肝腎の君鶴をのけ者にして、吉野屋の娘お絹と、人目を忍ぶ仲になってしまったのだ。
それにしては、お絹にとって競争の相手が悪かった。人もあろうにその道にかけてはみっちりと年期の入っている柳橋の姐さん。むざむざと鼻毛を抜かれて、黙って引っ込むわけはない。腕ずくで男を取り返すと、それから間もなく、お絹は食当りでぼっくり亡くなったという噂だった。
しかし、それは世間への触れ出しで、お絹の急死は変死に違いないと君鶴は思った。そして、多少は寝覚めの悪さも味わいはしたが、それよりも競争相手を倒してしまった安心の方が大きかった。
君鶴は、これでもう男の身も心も全く自分のものだと思った。そう信じていた。しかし、それが迂闊であったことには、君鶴はやがて、貞山に、別の女のかげを嗅ぎ出さなければならなかったのである。
そして君鶴は、動かぬ証拠を押えようと躍起になったが、そんなことには相当の自信を持っている筈の君鶴にも、まるで手懸りの緒さえも摑めない。じりじりした焦燥のうちに、半年近くの月日が空しく流れ去ってしまった。
すると、つい三四日前のこと。君鶴は、なんの前触もなしに貞山を訪ねて、玄関で声を掛けても返事がないので、勝手に二階に上って行った。
居間にも仕事場にも貞山の姿は見えない。玄関を開けっ放しにしてどこへ行ったのだろう。そう思った時に、突然、壁際の人形棚が動いたのだ。
(おやっ?)
君鶴は、とっさに身を翻して、物蔭に身をひそめた。
棚の奥からもぞもぞとはい出して来たのは貞山であった。幽鬼のような眼つきをして、なにかぼそぼそと呟きながら、厠にでも入るのか、そのまま階段を下りて行く。
(なんだ。この奥の秘密の室に女を隠しているのだな)
君鶴はそう思った。はじかれたように、居間の床の間に飾ってある刀架の脇差の鞘を払うと、前後の考えもなく、棚の後の潜戸から秘密の室に潜り込んだ。
(あッ!)
お絹の身代り人形……。それは、貞山が心魂を傾むけた仕事と見えて、ありし日のお絹の再現かと思われるばかりの姿かたちをして、勝ち誇ったように、その室に坐っているのだ。
突然、君鶴の頭は狂暴な嫉妬の炎に燃え上った。なにをしたのか分らない。気がついた時には、お絹の上に馬乗りに跨って、胸元深く脇差を突き刺していた。
そして、そのまま、貞山の家を飛出して行った君鶴だった。
「それから、私は今夜はじめてこの家を訪れました。留守の間にあれ程の意地悪を残されながら、師匠が血相を変えて押しかけていらっしゃらないのは、どうしたわけであろうかと心配になって、そっと様子を覗きに参りましたところを、親分さんに発見ってしまいました」
告白の最後を結んだ時、君鶴はもう泣いてはいなかった。
七之助と音吉が、庭の片隅から、一揃いの人骨を掘り出したのは、それから一刻ばかり後のことだった。
七之助の御用の肩がすっかり下りた日の翌日は、風も静かな花盛りで、向島は、今日あたりが花見の峠だろうという噂。
花を見て、人に揉まれて、言問団子に満腹すると、音吉は、臍のあたりをのんびりと撫でまわしながら、
「ああ、いい気持だ。親分、今頃は、雉子町のぼんくら大将が、さぞ苦虫を噛み潰していることでげしょうねえ」
「そんなことを言うもんじゃねえ。弘法にも筆の誤り、名人にも見込違いということはあらあ」
「ちえ。あのげじげじが名人だなんて。親分、人がいいにも程がありやすぜ。だが、待てよ。考えて見ると、そこが親分の偉えところかも知れねぇな」
「なんでえ。人を上げたり下げたりしやがって」
七之助の苦笑につり込まれて、音吉は愉快そうな笑い声を立てたが、
「ねえ、親分。あっしゃあ、親分が、最初っから、人形つくりに目をつけなすった理由を訊きてえんですが」
「そりゃ、なんでもねえやな。金目の物を身につけてとむらった小町娘の墓発き、てえことになりやあ、物とりか色情(いろ)のもつれか、誰しも二つに一つと考えらあね。ところが、墓場発きの犯人(ほし)あ、仏の体まで持って行ってしまっている。これが物奪りの所業(しわざ)なら、処分に困る死骸までひっさらって行くわけが呑み込めねえ。だから、俺あ、てっきり、色に狂った人間のしわざと睨んだんだ」
「なある」
「そこでよ。吉野屋のお霜をつかめえて、かまをかけると、人形師と君鶴姐さんとお絹さんとの、三つ巴のいきさつを、耳こすりしてくれたんだ。食当りという触れ出したが、じつあ、剃刀で喉笛を掻っ切って死んだんだと聞くと、俺も、自分の推量が、いよいよ当っていると考えたんだ」
「ようよう呑め込めやしたぜ、親分。それから、あっしゃあ、もう一つ、腑に落ちねえことがあるんだ。馬道の師匠は、どうして親分に向ってあんな意地悪をしたんでしょうねえ?」
「銀釵の一件かえ?」七之助は眉根に鍼を寄せて腕を組んで、「師匠がみだらな眼つきで俺の顔を見ても、俺が知らないふりをしていたからじゃあるめえか」
「へえ。だって、親分は、馬道の師匠ばかりじゃねえ、どんなに道楽に浮身をやつしていなさる時でも、女の肌にゃ、これんばかりも触れなさらなかったんだ。そりゃあ、馬道の師匠が無理というもんでさ」
「そりゃあそうだけれどもさ」
「君鶴さんといい、馬道の師匠といい、親分、あっしゃあ、女って奴がつくづく恐くなりやしたぜ。今日ばかりは、こんな御面相に生れて、よかったと思いやすぜ」
「なにを負け惜しみを言やがる」
仲よく、声を合せて笑いながら、二人は、茶店の床几を立上った。
道楽三昧の御用聞・七之助のもとに、子分の音吉が駆け込んでくる。亡くなったはずの船宿「吉野屋」の娘・お絹が愛用していた銀の簪(かんざし)を、ライバルの御用聞・藤兵衛からせしめてきたというのだ。簪は墓に納められたはず。事件の匂いを嗅ぎ取った七之助は、ついに重い腰を上げる。
藤兵衛は簪を質に入れた寺男・権作を捕らえるが、七之助は墓からお絹の亡骸まで消えていることを突き止め、単なる墓荒らしではないと見抜く。捜査線上に浮かんだのは、お絹に恋焦がれていた人形師・円谷貞山。
貞山の屋敷に踏み込んだ七之助たちが発見したのは、お絹そっくりの人形と、首を吊った貞山の死体だった。さらに、屋敷をうかがう怪しい人影を捕らえると、それは貞山の元恋人である芸者・君鶴であった。君鶴は、貞山がお絹の死後も彼女を忘れられず、人形に執着する様に嫉妬し、その人形を刺したと告白する。
七之助は全ての謎を解き明かす。貞山はお絹を想うあまり、その墓を暴いて亡骸を盗み出し、それをモデルに人形を制作していたのだ。狂気と罪の意識の果てに自ら命を絶った貞山。その庭からは、お絹の人骨が発見されるのだった。
本作の主人公。普段は道楽者だが、一度事件となれば天才的な推理力を発揮する御用聞。
七之助を「親分」と慕う唯一の子分。喧嘩は弱いが、親分のためなら体を張る忠義者。
江戸一流の人形師。吉野屋の娘お絹に恋をし、その死後、狂気的な執着を見せる。
柳橋の芸者。貞山の元恋人。貞山がお絹に心移りしたことに激しい嫉妬を燃やす。
船宿「吉野屋」の美しい娘。「小町娘」と称される。物語開始時点ですでに故人。
神田雉子町を縄張りとする御用聞。七之助のライバルで、手柄を競い合う。
A. 犯人が金目の物だけでなく、亡骸そのものまで持ち去っていた点です。金品目当ての盗賊ならば、処分に困る亡骸まで盗む理由がありません。七之助はこの不自然な点から、犯人の動機は物取りではなく、亡骸そのものに対する異常な執着、すなわち「色情のもつれ」にあると推理しました。
A. 誰にも殺されていません。貞山は自ら首を吊って命を絶ちました。お絹の墓を暴き、その亡骸をモデルに人形を作るという常軌を逸した行動に走ったものの、その罪の意識と狂気に耐えきれなくなり、自殺したものと推測されます。芸者の君鶴は人形を刺しましたが、貞山本人には手をかけていません。
A. いくつかの意味が込められていると考えられます。一つは、人形師・貞山が作ったお絹そっくりの「生きているかのような」人形を指します。もう一つは、貞山の心の中、そして君鶴の嫉妬の中で、お絹が死してなお「生き続けて」影響を与えている様を表していると言えるでしょう。事件の真相は、死んだはずの娘を巡る人々の狂気じみた愛憎劇でした。